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文久2年6月17日(1862年7月13日)
【江】幕府、勅諚は薩摩の私意から出るとみなし、慶喜登用を決さず
【江】島津久光の薩摩藩主就任否決の幕議

■勅使東下-慶喜・春嶽の登用
【江】文久2年6月17日、勅使大原重徳の三度目の登城を翌日に控えて、なおも勅諚をめぐる幕議は紛糾し、請けるとの結論はでませんでした

この日、4日ぶりに登城した幕政参与の松平春嶽*1は、和宮への宸翰(天皇の手紙)をみせられました。宸翰の内容は、<外国船渡来より世間が不穏だったが、いよいよ攘夷ということで万民安堵するだろう>というものでした。ところが、別途、庭田嗣子(宰相典侍・和宮付女官)宛には、上記宸翰も実は薩摩の願いで出されたもので、天皇自身は公武合体により世上平穏になればよいとの考えであることが書かれていたそうです。後者の方は、6月3日、和宮の生母の橋本観子に届いた橋本実麗(宰相中将)の書簡の内容とほぼ同じでした(こちら)

評議では、今回の勅書は「薩の好次第」だとされ、老中らは「一途に奉勅の体にも相運ばず」、一橋慶喜の後見職登用についても、「嫌疑説」がしきりに唱えられ、決定にいたらなかったそうです。(嫌疑についてはこちらの「慶喜への嫌疑」を参照)

*1(春嶽は6月14日以降、暑気あたりを理由に登城を停止。実際は、勅諚(特に慶喜の後見職登用)に対する幕閣の抵抗に不満を感じてのことだったようで、越前藩は春嶽の進退を評議してしいた(こちら)。16日夕、老中の使者・大目付大久保一翁から、明日は宸翰をお見せするので登城するようにと促され、ようやく登城)

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」 ■テーマ別文久2:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下
参考:『再夢紀事・丁卯筆記』(2002.9.19, 2005.7.12)
■国是決定ー攘夷奉勅VS開国上奏
【江】文久2年6月17日、老中は、春嶽に、明18日に勅使大原重徳が登城するので、攘夷が困難である条理を説明するよう依頼しましたが、春嶽は断りました

その後、春嶽は大窪一翁に会い、仮に破約攘夷が困難であることを説明したとしても、その後、どうなるのかと質問したところ、一翁も、そのことについては兼々当惑していると述べ、どちらを向いても「因循不振の儀」であることを嘆息したそうです。

関連■テーマ別「国是決定ー開国VS破約攘夷」■越前藩日誌文久2 ■幕臣小伝:大久保一翁
参考:『再夢紀事・丁卯筆記』(2005.7.12)

■久光の藩主就任問題
【江】文久2年6月17日、幕議は島津久光の薩摩藩主就任を否決しました

かねてより、薩摩藩末家の島津淡路守から、薩摩藩主島津忠義を自らの世子とし、藩主の座を島津久光にという内願がでていましたが、現藩主を引退させて久光を藩主につけるのは難しいという評議になりました。

関連:■「徒然」「島津久光の改名-藩主への野心?」■薩摩藩日誌文久2
参考:『再夢紀事・丁卯筆記』(2002.9.19)

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