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文久2年6月24日(1862.7.20)
【江】越前藩、大目付大久保一翁に松平春嶽辞任内願の真意は、
幕府が私政を改めないことにあると説明する

■勅使東下-幕政改革(春嶽の登城スト)
【江】文久3年6月24日、大久保一翁は、松平春嶽辞任内願の原因は、幕府が私政を改めないことにあると知りました。

大目付大久保一翁(当時忠寛)と浅野氏祐両名が来邸して病床にある春嶽に面会しました。勅使への回答書を持参して老中からの相談事項を述べ、その後、辞任内願の件について翻意を促すよう議論をしたといいます。彼らの用件が済んだ後、越前藩の執政三名が一翁と密談し、内願の起源は「幕府御私政放擲之無故」だということを詳しく説明したそうです。

この日、越前藩邸では、(登城再開の上は)「天下の人材を挙て幕吏に任じ、幕私を去るべし」という議論が行われました。

<ヒロ>
大目付二名を早速派遣していることからも、老中が春嶽の突然の参与辞任内願に困る様子がうかがえるのではと思います。勅使にも春嶽の大老への登用を約束したばかりですし、そうでなくても春嶽の幕政参与は将軍の直命ですから。

春嶽は、辞任の内願を出した作日、一翁には中根を遣わしてそのことを報告させていましたが、真意までは明かさせていませんでした。今日になって、真意を明かすことになったのはなぜでしょうか?

実は、昨夕、越前藩では、春嶽の枕元に家老らが呼ばれ、何とか再び登城して幕政改革に尽力する方策はないかとの議論が行われていました。このまま引退したのでは、春嶽に対する将軍家茂の依頼、今回の勅意、老中脇坂安宅・大久保一翁の忠告、また薩摩藩の「強迫之正論」などに対して面目が立たないと考えられたからだそうです(こちら)。管理人は、このときの議論の中で、一翁に期待しようということになったのではと推測しています。幕府の「因循」を歎いている一翁なら(こちら)、春嶽の意を理解し、幕府が私政を改めることに力を尽してくれるはず・・・と見込んだのではないかと思うのですが、どうでしょう?⇒6月25日の「今日」に続く

参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2005.7.18)
関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■越前藩日誌文久2■幕臣小伝「大久保一翁

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