7月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年6月23日(1862.7.19)
【京】関白、九条尚忠から近衛忠煕に
【江】松平春嶽、幕政参与辞任の内願を提出
【江】久光、勅意が貫徹しないことを慙愧する書を春嶽に遣わす
【江】越前藩、春嶽登城再開の「条理」を講究

■安政の大獄関係者の処罰と大赦
【京】文久3年6月23日、九条尚忠の代わりに、近衛忠煕(このえ・ただひろ)が復飾して関白(&内覧)に就きました。

<ヒロ>
この朝廷人事は、去る4月に島津久光が率兵上京した際の建議(こちら)に沿ったもので、薩摩藩の周旋が功を奏したといえると思います。(幕府にとっては、久光に対する嫌疑がさらに増すような人事といえますよね・・・)

◆九条尚忠
尚忠は安政の大獄時の関白で、「幕府寄り」とみられていました。九条は、条約勅許問題では、幕府側に同調したため、公家の反発から八十八卿の列参奏上を招き、内旨によって一度は辞表を提出しましたが、老中間鍋詮勝らの周旋によって辞任は免れました。その後も、公武融和をめざして幕府に協力し、家禄の加増を受けました。皇妹和宮の降嫁にも尽力して、尊攘過激派たちに憎悪されていました。文久2年4月に久光が率兵上京した際、久光に期待して京都に集まった過激派たちは、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義の襲撃を計画していました。(御存知のように計画は寺田屋事件により頓挫しましたが)。

◆近衛忠熙
久光が代わりに推したのが薩摩藩と姻戚関係にある近衛忠熙でした。忠熙は、安政年間には左大臣になっていましたが、条約勅許問題では関白九条尚忠と対立しました。将軍後継問題では、薩摩藩の推す一橋慶喜擁立を周旋し、水戸藩への密勅降下にも尽力しました。これらの結果、幕府ににらまれ、安政の大獄の一環として、辞官、その後、落飾・謹慎に追い込まれていました。

参考:『徳川慶喜公伝』2
関連■開国開城「将軍後継問題と条約勅許問題」 「戊午の密勅と安政の大獄」「薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件」 ■テーマ別文久2年「島津久光率兵上京と寺田屋事件「安政の大獄関係者の処罰と大赦

■勅使東下-慶喜・春嶽の登用
【江】文久3年6月23日、松平春嶽は、老中脇坂安宅(中務大輔)に対して、幕政参与辞任を内願しました

春嶽は、幕閣が一橋慶喜の後見職登用をしぶる様子に、幕府の私政が改まりそうもないと辞意を固め、同月18日以来、病を理由に登城をとりやめていました(こちら)

この日の朝、越前藩家老本多飛騨・松平主馬が脇坂邸を訪ね、<中将様(=春嶽)は従来、不才で、多病でもあるので、大任は堪がたく、政事相談・登城の件は免除していただきたい>と内願の趣を申し立てると、脇坂は<当節は大事なときなので、是非登城されるよう、御家来方もお勧めしてほしい>と懇々と諭したそうです。

また、これまで何かと交誼のあった大目付大久保一翁(当時忠寛)のところへは中根雪江が使者として赴き、辞任の内願を出したことを知らせました。一翁はかねてから、そのようなことになるのではと案じていたそうですが、<何分にも、今、お引きこもりになられては、「(将軍の)御上洛も(幕政の)御改革もすべて瓦解」となるので、是非登城されるよう>と諭したそうです。

<ヒロ>
同じ幕政参与の松平容保には連絡しなかった模様です。それほど交誼がなかったのか、それとも容保も幕習に染まっている「一味」の一人、保守派・改革への抵抗勢力だとみなされていたのか・・・。この時点では、辞任願いの本当の理由(幕府の私政)を老中はもちろん一翁にも明かしていないことも注目ポイントだと思います。ホントにやめるつもりなので、今更真意を明かしても・・・といったところなんでしょうか?

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■幕臣小伝「大久保一翁

■薩摩藩&越前藩
【江同日、薩摩藩国父・島津久光から春嶽に書簡が届きました。幕府が「因循」で勅意が速やかに貫徹しないことを自己の非力に帰して慙愧する内容だったそうです。

さて、書簡を届けた薩摩藩士中山中左衛門(当時納戸奉行兼小納戸頭取:30歳)は、応対した中根雪江(56歳)に対し、薩摩藩は春嶽に助力を惜しまない覚悟であるのに、肝心の春嶽がこの難局にあたって登城せぬことを詰問しました。中根は、不才・病弱のためだと弁解しますが、中山はそれは「飾辞」「遁辞」だと承知ません。さらに、春嶽に「天下挽回」の「誠心」があれば、薩摩藩は、閣老・有司だろうと邪魔者は排除し、諸藩についても指図通りにし、必要ならば武力をもって助勢する覚悟があると明かした上で、春嶽の進退に関する真意を打ち明けるよう迫りました。中根は、春嶽の真意を明かすことはせず、なんとか話を家臣らの進退に関する議論にそらして、ようやく座を辞したそうです。

<ヒロ>
厚誼のある一翁にも辞任の本音を明かしていないわけで、一見の薩摩藩士中山に明かすわけにもいかないと思いますが、中根にとっては力の行使を示唆する中山にうかつに返事ができないという気持ちもあったのかもしれませんネ。中山の直球勝負については、「筆陳鎖港攘夷の舌戦数々の重囲の困難ありといえども、今日の如く御将机之迄切込みたる強敵には逢わざりしなり」と脱帽しています。ちなみに、中山は、一説に、寺田屋事件に関った田中河内介が鹿児島に護送される途中に殺された事件で、その指示を出したともいわれています(こちら)。武闘派なのでしょうか??

ちなみに両者の会話の概容は以下の通り。(口語訳by管理人)
中山 先候(=島津斉彬)が、常々、また臨終にも、「越公は我知己なり。我かなからん後は越公を見る我か如くして天下国家の事をも依頼すへし」と遺言された事ゆえ、三郎殿(久光)はじめ、薩国一同が越公を仰ぎ見ること先候に等しく、死生をお任せする思いです。このたびも、ひとえに老公(春嶽)を慕って、国を出て京に上り、東都に下りました。薩州一国を挙げて(春嶽を)信任し、三郎殿(=久光)を始め、及ばずながら力のあらん限り御手伝いをいたす所存です。ところが、江戸の状況、廟堂の模様を拝察するに、幕府の威権を老公が掌握されているようにも窺えず、旧より閣老の専横の様子がないとも申し難く、勅使の一件についても純一に尊奉にも至り兼ねるのではと想像されます。ここは老公の御英断をもって速やかにただすべきと存じますが、老公も毎度の御所労から最近は数日間御登城がありません。畢竟、徳川氏の天下も累卵(=不安的で危険な様子)の勢いとなるこの時に、(春嶽は徳川)宗家の懿親(=近親)をもって天下の重望を負われています。その途上にあって(登城をしないとは)この天下を如何思し召されているのか。卑賤の小臣輩には何とも淵底がみえません。老公の目的はいずれにあられるのかうかがいたい。
中根 申されることは一々ご尤もだが、元々、老公には名望にふさわしい才徳がおありではない。いわゆる声聞過剰であり、兼々憂慮しておられる。(春嶽には才徳がないので)天下の大勢がこのようになるのを負担になる御覚えはなく、胆力も乏しく、方今の形勢は識量にあふれ、当惑のあまり心気も衰え、自然と所労勝ちにもなられる。よんどころない次第で、家来共も恐れ入り、残念にも存じている。
中山 <席を進めて・・・>お答えの趣、一応は聞こえましたが、それは、ただ、よんどころなき様態を申し述べ、事を左右に寄せた飾辞であり、有志へのご挨拶とは承り難い。御不才であっても御弱質であっても、御誠心と申すものがおありのはず。恐れながら、今日まで御勤仕の御次第は、天下のために御不才御弱質の限りをつくされたようには存じられず、ただ御一身の利害・進退の上に局脊されているようにうかがえ、憤嘆に堪えません。
中根 そのように見られるとは慙愧至極。老公は、御一身上にこだわって官途に猶予されることは決してなく、精々御尽力されているが、既にご覧の通りなので、近ごろは、ただただ御自分の微力さに屈したくあられる。
中山 <血相を変えて・・・>貴君が長年忠勤され、老公帷幕の謀臣であることは誰知らぬ者がありません。その貴君にして、老公の御赤心がどのようなという事を承知せぬということはあるまじき事です。いろいろ申されたことは、遁辞だとしか承れません。

前にも申したように、三郎始め、国を挙げて依頼し、相応の御手伝いもしたいと思い込んでいるのを、何の役にも立たぬと申されるのか。老公の御赤心が、是非、この天下を挽回せねばならぬと、命をかけて思われている事であれば、その誠心の邪魔を致す者は、閣老であれ、諸有司であれ、どのようにもして速やかに排除する、ここらが田舎者相応の御手伝いであり、必ず思召し通りにしましょう。もし、また、諸藩に関することであれば、これまた御指図次第でいかようにも働きましょう。死を辞さぬ者も召し連れていますので、力をもって助勢できる筋があれば、一歩も退きません。これほどに心胆を吐き、談論に及びましたので、何とぞ、老公には、御進退の御赤心を明かしていただきたい。
中根 老公は御菲薄(=才能が乏しい事)ではあるが、身命をのみ惜しまれる不義怯懦(きょうだ)ではない。もちろん勇往決行の御赤心をおもちだが、それはお気持ち上のことで、荊棘(=障害)は容易には芟除できない。実に疲馬の重任だと、家来共は見るに忍びず、(春嶽が)堪えられぬ大事をなまじに担当して「天下為すべからず」になってはこの上ない罪責であるので勇退すべきとし、国許からは家老ら有志が出府して、「討ち死すべきときは今日に限らない」と(春嶽に対して)諫争する状況である。そのへんにも(春嶽の)御当惑がないともいえない。

(中山が血相を変えてずんずん中根に迫っているケースですし、もしかすると侍言葉っぽい「〜ござる」とか薩摩弁っぽい「〜でごわす」とかを使えたら、臨場感があってよかたのかも・・・お国言葉バージョン「今日」が作れたら面白いですよね〜、きっと)

■春嶽の登城スト)
同日夕、越前藩では、春嶽の枕元に家老らが呼ばれ、なんとか再び登城する(&幕政改革に尽力する)「条理」はないかとの講究が行われました

春嶽&越前藩が辞任を決意したのは、現在の幕府は硬直していて勅意さえ貫通しがたく、一橋慶喜の後見職登用を今なお紛糾するのをみても、従前の「幕府私政の体裁御変革に至らず」、このような数百年来の旧習に染まって、一翁ら有為の諸有司でも事柄によっては「脱却」しないところもあるので、春嶽の独力をもって旧習を一々粉砕改良することは才力に超過する「難儀」だからでした。しかし、このままでは、春嶽に対する将軍家茂の依頼、今回の勅意に加え、本日の老中脇坂安宅・大久保一翁の忠告、また薩摩藩の「強迫之正論」に対して面目が立たず、引退はしのび難いという気持ちになったようです。

<ヒロ>
翌日・翌々日の越前藩の動きからみて、この日の邸議の結果、「条理」は幕府が私政を改めることで、そのために、まず大久保一翁に辞任の真意を明かして協力者とする方針になったのだと思っています。詳しくは⇒6月24日、25日の「今日」

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「薩摩藩と越前藩」■越前藩日誌文久2 ■薩摩藩日誌文久2
参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.20, 2005.7.14, 7.18)

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