7月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年6月25日(1862.7.21)
【江】勅使大原重徳、老中を招いて慶喜登用を催促
【江】春嶽、「幕私を去る」ため、登城再開を決定
【江】松平容保、春嶽に参与辞任の翻意を促す

■勅使東下-慶喜登用
【江】文久2年6月25日、勅使大原重徳は伝奏屋敷に老中脇坂安宅・板倉勝静を再び招き、慶喜登用を促しました。老中は、幕府内で意見が一致しないことを理由に猶予を請いました。

参考>『徳川慶喜公伝』2・『大久保利通日記』一(2002.9.20)

■幕政改革(春嶽の登城スト)
【江】文久2年6月25日、越前藩士長谷部甚平・千本藤左衛門・大井弥十郎・村田氏寿(巳三郎)が大目付大久保一翁(当時忠寛)を訪ねて「大議論」をしました。その結果、一翁は「幕私を去るべき」に同意したそうです。

午後、藩邸では春嶽臨席の会議が行われ、「幕私を去る」ために登城を再開することに決定しました

<ヒロ>
6月23日(2日前)に幕政参与の辞任を老中脇坂安宅に内願した春嶽でしたが、同じ日に脇坂・一翁に翻意を促され、さらに薩摩藩士中山中左衛門に「強迫の正論」を説かれ、このままでは天皇・将軍はもとより、有志に対して面目が立たないと、なんとか登城を再開する「条理」はないかと探っていました(こちら)。翌22日、一翁が公用で同僚の浅野と越前藩邸を訪ねたとき、執政三名が一翁と密談し、辞任内願の起源は<幕府が私政を放擲しないから>だということを詳しく説明していました。その後、越前藩邸では、(春嶽登城再開の上は)「天下の人材を挙て幕吏に任じ、幕私を去るべし」という議論が行われました(こちら)。この日、長谷部らが一翁を訪ねたのは、前日の密談の延長で、邸議を受けた上でのことだというのは明らかですよね。23日に話し合われた「条理」は「幕私を去る」ことであり、その協力者として一翁に白羽の矢が立ったのだと思います。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.20, 2005.7.18)
***
【江】文久2年6月25日、会津藩士小森久太郎が越前藩士草尾精一郎を訪ね、春嶽参与辞任の翻意を促し、もし春嶽から言上しにくいことがあれば、藩主容保が一身に代えて取り持とうと申し出ました

「肥後守(=容保)は下より不才故、疾にも御辞退の心算なかりしとも、当節柄故、公(=春嶽)を依頼に登城致し居り候。万一にも公御引入に相成り候時は、一人にてはとても相勤め難し。唯今両人共御引込に相成候ては世上の観望も不穏指向き御為にも相成らず候へば、何卒(なにとぞ)不日に御出勤相願いたく、もし御手元よりは仰せ上げられ兼ね候御筋等も在らせられ候はば、肥後守、身に代え御取持ち致さるべし」(書き下し・句読点byヒロ)

<ヒロ>
■容保(会津藩)と春嶽(越前藩)の微妙な距離感
春嶽は、辞任の内願をしたことを同じ幕政参与の会津藩主松平容保には伝えていませんでした。会津藩では、春嶽の所労は托言であり、実は参与(&大老)辞退のつもりでいるということを誰かから聞いたようです。会津藩へ知らせなかったのは、それほど交誼がなかったのか、それとも容保も幕習に染まっている一人、保守派・改革への抵抗勢力だとみなされていたのか・・・手持ちの資料からはよくわかりません。

さて、越前藩側の反応なのですが、「再夢紀事」には何も書かれていません。書き留めるほどの対応をしなかったのかもしれません。とりあえず、真意を明かしたのではなさそうです。せっかくの厚意なのに、その後、春嶽が、渡りに船・・・と容保に依頼したという様子もありませんので・・・。やはり、一翁と違って、容保や会津藩士に真意を明かして「幕私を去る」議論をしても、同意を得る見込みはなさそうだと思われていたのではないでしょうか。たとえ、同意を得て代弁してもらったとしても、容保の政治的能力&幕閣への影響力に鑑み、あまり期待できないということもあったのかもしれませんが^^;。

ちなみに、小森は文久3年に京都守護職として赴任した会津藩が設置した公用方を当初から主導した藩士です^^。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.20、2005.7.18)

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「幕政改革問題」 「容保VS幕閣・春嶽」」■幕臣小伝「大久保一翁

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