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文久2年6月26日(1862年7月22日)
勅諚:老中、一橋慶喜の後見職登用を勘考すると返答

■勅使大原東下-慶喜登用
【江】文久2年6月26日、勅使大原重徳は、前日に続いて老中脇坂安宅・板倉勝静を伝奏屋敷に呼び出し、勅諚奉承(即ち懸案となっている一橋慶喜の登用)を迫りました。

その結果、老中は奉承するよう努力すると回答しました


実は、老中が来る前、薩摩藩士大久保利通(当時一蔵)が、大原に対して、老中があくまでも勅諚を拒むのであれば彼らを「返し申しましく(=つまり、刺殺する)決心」であることを述べていました。大原もこの発言を受けて強い態度で臨むことを決めたようで、両老中に対し、「御請け致さず候えば只今変ニ及」と告げたそうです。顔色を変えた老中は請ける方向で考えると答えたとか(『大久保利通日記』)。

<ヒロ>
老中板倉勝静が当初慶喜登用の勅諚奉承を固く拒み、刺殺者の存在によって初めて奉承に同意したかのような対応は、尊攘急進派には朝廷尊崇の意がないと受け取られたようです。これは、同年11月の攘夷別勅使到着後の「壮士等」による板倉暗殺計画につながっていきます・・・。⇒(こちら)

参考>『大久保利通日記』一、『徳川慶喜公伝2』(2002.9.20、2003.12.31)
関連:■「開国開城」勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「慶喜・春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「幕政改革問題」 「容保VS幕閣・春嶽」■幕臣小伝「大久保一翁

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