7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■長州藩の攘夷戦争 【京】文久3年6月14日、朝廷は、正親町公菫少将に監察使・長州下向を命じました。公菫は、即日受諾しました。 『維新史』によれば、その目的は、攘夷を実行した長州を慰労し、西国諸藩の奮起を促すことによって長州を援助しようとするものだそうです。 6月下旬に、近衛忠煕前関白父子が島津久光に報じたところによると、攘夷監察使は主に三条実美の周旋で実現したもので、国事掛のうち上級公卿から成る「勅問之御人数」の知らぬところで朝命が下りたようです。
参考:『中山忠能日記』一p31-32、『玉里島津家史料』ニp347-348(2004.8.10) 関連■テーマ別「長州藩の攘夷戦争」「長州藩VS小倉藩」「親兵設置」 ■越前藩の挙藩上京計画 【越】文久3年6月14日、越前藩は、藩主茂昭の参府を主張する用人中根雪江を譴責処分にしました。 「重き御役柄相勤度々内外を阻隔し人心を害い候段不届きに付蟄居仰せ付けられ(候)」 ○藩主茂昭の参府問題と挙藩上京計画 中根雪江が蟄居!どうしたのでしょうか。実はこれには藩主茂昭の参府(参勤交代のための江戸行き)問題がからんでいます。 予定では、この年の7月、藩主茂昭は参府することになっていたのですが、越前藩ではこれを見合わせることにしていました。それは(1)将軍家茂が春から滞京していること、及び(2)越前藩では茂昭・春嶽が同時に上京して藩論を朝廷・幕府に言上すると決定したこと(こちら)、からでした。ところが、将軍は6月9日に退京し(こちら)、13日には海路江戸に向かいました(こちら)。将軍東帰の報が届くと、茂昭が参府の期日に間に合うよう出立すべきだという議論が起こりました。これに対し、挙藩上京推進派は参府延期を主張し、藩内は分裂していました。 参府延期派(挙藩上京派)は松平主馬・本多飛騨・長谷部甚平・三岡八郎(由利公正)らで、彼らの主張は以下のようなものでした。 <幕府は、到底実行できないと知りつつ鎖港の談判を開始し、また、英国への償金交付が朝野に紛議を招いたことをみて、急に未だ交付せずと造言している。さらに、公武の不和が増すことになるにもかかわらず、東帰するなど、何事においても難に当たるのを避けるのみで、ひとつとして皇国の為めも永久の安全を図る事はなく、既に天下は累卵の危に迫っている。「是幕府自ら大権を放棄せらるるなり。されば過日来決定せる藩議の如く、今後いよいよ朝廷に於いて政権を掌握せらるる外あるべからず。是即ち皇国の為め永久の安全を図る所以にして宗家の為にも社稷を安んずるの途なり」。参府は、平時には軽からぬ事だが、このような非常時に、必ずしも拘るべきではない。少将公(茂昭)も病気であることだし、参府延期を要請すべきである> もちろん、横井小楠も彼らと同意見でした。しかし、中根は参府を主張しました。中根の意見はこうです。 <宗家を推して朝廷を奉ずることこそ越前藩の本意とすべきであり、たとえ幕府に失態があるにせよ、にわかに宗家を無視し、参府の義務を怠るのは当然の処置ではない> 中根は(挙藩上京計画の周旋のために?)再び上京すべきとの意見も承諾せず、家に篭っていたそうです。それで、ついに、この日、蟄居処分を受けたのです・・・。 <ヒロ> 小楠と中根の対立・・・。残念・・・・。 さて、越前藩の王政復古論は、政治は皇国のため(天下・公共のため)であるべきだという考えに根ざしています。天下の政治を行わない幕府は大権を捨てたも同様なので、代って朝廷が政治を行うべきだというのです。政治の中心は江戸ではなく京都になります。だから、茂昭も江戸にではなく、朝廷のある京都に向かう必要があるんですネ。(この政治は天下のものであるべきというのは、小楠の持論です^^)。 関連:■テーマ別「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』二(2004.8.10) |
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