7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年6月13日(1863.7.28)
【坂】将軍家茂、大坂城を出て海路江戸へ。
会津藩士諌止間に合わず。
【江】一橋慶喜、重ねて辞意を示す
【京】朝廷、小倉・津和野・中津・秋月・福岡藩に長州藩の応援を命ず
【京】村田巳三郎、肥後藩沼田勘解由に長岡良之助上京を促す

■将軍東帰問題
【坂】文久3年6月13日、将軍家茂は、関東の差し迫る事情を理由に、老中らとともに急きょ大坂城を出て、海路、江戸に向かいました。

老中板倉勝静は前12日、将軍不在中は京都を預かることになる守護職松平容保に次のような親書を出していました。

図書一件(小笠原の件)は(小笠原が)答書(=上京理由書)も提出し、取調べも付き、処分についても、老公(=前尾張藩主徳川慶勝)に申し上げておいたので、万々一、厳しい御沙汰が出たときには、厳罰は免れるよう、御周旋をお願いしたい。
勅許の上、御東下をお命じになることになったが、何分、横浜の事情は難しく、昨日外国奉行柴田奥太郎、御目付高力與三郎が参って申すには、長州の打払いで各国は大いに憤怒し、軍艦数艘を(長州へ)差向ける様子なので、早々に東下すべきだとのこと、何分拠無く、明日の出発に決まった。勅許の上ではなく、どのような様子になるか深く心配しているが、御承知の通り、何分致し方なき次第である。御察しいただきたい。尾老公のお考えも深く心配しているが、何分致し方ないことである。水野彦三郎へ、委細話しておいたので、同人よりお聞きいただきたい。

容保は、将軍の東帰を諌止しようと公用人の小野権之丞らを大坂に派遣して説得を続けていました。将軍東下が決定したときいた小野・松阪三内は急ぎ大坂城に向かいましたが、将軍は既に乗船した後でした。小野らは船に向かい、板倉に面会して東帰不可を説きましたが、功を奏しませんでした。板倉はやむを得ぬ事情を示す手簡を小野らに与えました。

「今日御東下の儀は、昨日委細御文通及び候次第、止むを得ざる次第にて、御治定に相成り候事、今日船中迄権之丞・三内罷り越し、心配の趣、段々申聞き、尤もの事に候へ共、何分今更御見合いにも相成り兼ね、委細の事情も申聞き置き候。御聞取り下さるべく候。余は御東下の上、万々申上ぐべく候」

参考:『七年史』一(2001.7.28, 2004.7.27)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

■攘夷期限&一橋慶喜の後見職辞表
【江】文久3年6月13日、一橋慶喜は、朝廷に対して重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>とする内容の奏請書を提出しました

<ヒロ>
慶喜が最初に辞表を出したのは生麦事件の償金支払い後の5月14日でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下していました(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.7.28)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「慶喜辞任問題

■長州藩の攘夷戦争
【京】文久3年6月13日、朝廷は小倉・津和野・中津・秋月・福岡藩に長州を応援するよう命じました

参考:『修訂防長回天史』三下p456 (2004.7.28)
関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争

■越前藩挙兵上京計画
【京】文久3年6月13日、越前藩士村田巳三郎は、肥後藩沼田勘解由に越前藩の計画を伝え、肥後藩主細川慶訓の弟・長岡良之助(護美)の上京を促しました。沼田は同意しましたが、春嶽が(藩主に)直書を送ることを勧めました。

両者の会談は以下の通り(口語訳byヒロ)
村田 最近の形成は危急に迫り、国家千歳の大計が誤まろうとしています。我が藩では国論ニ箇条を定めて、十分の尽力に及ぶべき積りですが、ご意見は如何でしょうか
沼田 (同意した)
村田 三条殿始め国事掛がこの件を開悟されなくては到底事は行われないでしょう。良之助殿は縉紳家の信を得られているので、この御方を開悟させる事は、貴藩で負担していただきたい
沼田 (同意したが)熊本の方に「内情」があり、過日議奏から上京を命じられた際に、領内海岸警備を理由に猶予を求めたので、急遽上京することは難しいでしょう。まず、春嶽殿が国論の趣を記した直書を熊本に遣わされ、その上で、春嶽殿が機に臨んで上京を促されることになれば、必ず上京するでしょう。しかし、この件は篤と考えた上で御確答に及びます

●おさらい
越前藩では、6月1日に、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めましたが(こちら)、4日には慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました(こちら)。これを受けて、村田は6日に上京していました。12日には薩摩藩士高崎左太郎(正風)・吉井幸輔に藩論を説き、同意を得ましたが、時機を待つよう助言されていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』ニ(2004.7.28)
関連:■テーマ別「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

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