7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年6月9日(1863年7月24日)
【京】将軍退京&下坂、老中容保に残事務を委任。
【江】幕府、仏公使に攻撃猶予と幕府への処置委任を求める
【薩】天皇の久光召命勅書、薩摩に届く。

■将軍東帰&小笠原の率兵上京
【京】文久3年6月9日早朝、将軍家茂は率兵上京を試みた老中格小笠原長行処分のため退京・下坂しました。

幕府は、小笠原が大坂に率兵上陸(こちら)した2日後の6月3日に、既に(攘夷のための)将軍東帰の勅を得ていました(こちら)。同月6日に朝廷が小笠原への厳罰を求めると、将軍が下坂して処分にあたりたいと願い出ていました(こちら)

孝明天皇はこのことを喜び、中川宮に次のような書簡を送ったそうです。

「小笠原図書頭一件御聞及も候半、追々暴悪之次第候・・・職録召上丈ヶ処置相付、今日ハ大樹之発足ニ相成、今日浪華城に滞在、姦人掃攘と申事ニ候。何卒速ニ成功候様と存候」(『維新史』引用の尊融親王手写宸翰写より)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

■守護職の職権
【京】文久3年6月9日、将軍退京に際して、老中は京都守護職松平容保に残事務を委任しました。

将軍は退京にあたって容保を居室に招き、勤勉の労を称して刀剣を与えたそうです。

老中が残事務を容保に委託するにあたって、その処決に任せた条件は以下の通り。
時宜に寄候はば(将軍の)御上京も可有之事、
松平大膳大夫(=長州藩主毛利敬親)、小笠原大膳大夫(=小倉藩主小笠原忠幹)外夷取扱一条、伝奏へ御談の事、
前大納言様(=前尾張藩主徳川慶勝)、大坂へ被為入様、致し度候事、
図書頭(=小笠原長行)助命の段、飽迄も御周旋奉願候、決て同連の私情を以て、申上候事に会て無之、天下の為に懇願に御座候
山田奉行は、何卒是迄の通り、御旗本にて被仰付度候
十五万俵御増進の事但中條心得罷在候
当地の御模様可被仰下候、箇様の品被進候方、宜敷杯と申事迄も、可被仰下候事
御所向小役人、私曲無之様致し度事
町奉行支配向等、私曲無之様致し度事
有栖川宮の義、可然御取計相願候事
中川宮御家禄の事
同宮御屋敷の事、右両條中條心得罷在候

<ヒロ>
これまで、容保は将軍下坂を諌止していましたが、功を奏しませんでした。京都守護職に浪士取締の親玉のような印象を持つ人もいるようですが、実際は「大所司代」ともいうべき政治機関でした。将軍、老中及び慶勝の下坂により、容保は公武合体勢力の後退した京都における幕府の代表となり、その政治的性格がより明確になっていきます。

とはいえ、以後、会津藩は、将軍が京都に在るときは滞京を促し、逆に江戸にあるときは上洛を促しており、容保(会津藩)が在京幕府代表としての役割を好んでいたとは思えません。このときも、老中が示した残事務委任事項の文書には、「(将軍が)時宜に寄候はば(大坂から)御上京も可有之事」とあり、容保は再度の将軍上京に望みを託すことも可能だったようです。しかし、将軍は13日に東帰し会津藩は京都政局において孤立を深めていくことになります。将軍は最初から東帰をする計画だったようですから、幕府が将軍再上京の可能性を示唆したことは、会津藩の抵抗を抑えるためのリップサービスだったといえるのではないでしょうか。

参考:『七年史』一、『幕末政治と倒幕運動』(2001.7.24, 2004.7.24)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京「守護職会津藩の孤立と職権確立

■島津久光召命
【薩】文久3年6月9日、薩摩藩国父島津久光への急速上京「姦人掃除」の密勅(こちら)が、鹿児島に届きました

関連:■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変■薩摩藩日誌文久3

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