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文久2年7月29日(1862年8月24日)
【江戸】会津藩、京都守護職の内命を固辞。

■容保の守護職就任
【江】文久2年7月29日、会津藩は京都守護職の内命を固辞しました

「再夢紀事」によれば、この日、会津藩家老横山主税が越前藩邸を訪問し、<主人にも伝え、藩内でも衆議にかけたところ、何分190里を隔てた京都守護は請け難い>という趣を種々の困難(特に守護職という名称から兵備について)を挙げて説明し、書面をもって断りました。容保も直書によって固辞し、自分に代わって姫路藩主を推挙しました。

春嶽は横山を召し出し、外様大名が間隙に乗じないよう京都の警衛を固めることは重要であること、兵備といっても必要の際には近畿諸侯に会津候が指揮すればよいので手兵がなくとも差し支えないこと、守護という名目は改めてもよいこと、姫路藩には大任は覚束ないこと等を述べて、容保が守護職を受諾するよう説得しました。↓

「先達而所司代之名目御家柄不相当ニ付御辞退之訳も有之ニ付、此度は名称を被改御談ニ相成處、守護之文字より兵備に亘り事六ヶ敷御申立候得共事、畢竟、此節公武合体之御趣意を厚相心得以来外藩間隙に乗ぜし不申様、けっ下を持固メ可申為め、忠孝義勇の御家風天下の嘱望なるを以貴藩被命、叡慮も人心も被安度御趣意にて、兵備は要する處に無之、自然人数入用の節は兼而被命置候近畿之諸侯へ会候指揮有之候へは、御手勢は無之とも指支之義は有之間布候得は、守護之名目は如何に被改ても宜敷、姫路抔に而は大任無覚束趣御説得ニ而、会候にも今一応御熟孝にて何卒御請に相成様被成度」

これに対して横山は国許の家老に早馬を出して知らせ、評議の上回答したいと答えました。↓
「人数を以守護而巳之事候へは人数さへ有之候へは相勤まり候へ共仰セ之趣に而は尚更不容易大任ニ而中々主人始此表限りニ決断は難仕国許家老共へも早打ちを以申越評議の上ならては御請難仕」

『京都守護職始末』によれば、将軍の命令と藩祖の遺訓(会津松平家には藩祖保科正之の残した家訓として、「将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない」というものがある:こちら】」)を重んじるばかりに、失策を犯し、かえって徳川宗家、ひいては国家に累が及ぶのを恐れたのだそうです。

なお、「再夢紀事」では家老横山主税について「六十有余の老体にて執権の老職の由。忠実堅固の人物にて持重(自重?)甚し」とコメントしています。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『七年史』一(2002.9.22)
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