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■容保の守護職就任 【江】文久2年7月29日、会津藩は京都守護職の内命を固辞しました。 「再夢紀事」によれば、この日、会津藩家老横山主税が越前藩邸を訪問し、<主人にも伝え、藩内でも衆議にかけたところ、何分190里を隔てた京都守護は請け難い>という趣を種々の困難(特に守護職という名称から兵備について)を挙げて説明し、書面をもって断りました。容保も直書によって固辞し、自分に代わって姫路藩主を推挙しました。 春嶽は横山を召し出し、外様大名が間隙に乗じないよう京都の警衛を固めることは重要であること、兵備といっても必要の際には近畿諸侯に会津候が指揮すればよいので手兵がなくとも差し支えないこと、守護という名目は改めてもよいこと、姫路藩には大任は覚束ないこと等を述べて、容保が守護職を受諾するよう説得しました。↓
これに対して横山は国許の家老に早馬を出して知らせ、評議の上回答したいと答えました。↓
『京都守護職始末』によれば、将軍の命令と藩祖の遺訓(会津松平家には藩祖保科正之の残した家訓として、「将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない」というものがある:こちら】」)を重んじるばかりに、失策を犯し、かえって徳川宗家、ひいては国家に累が及ぶのを恐れたのだそうです。 なお、「再夢紀事」では家老横山主税について「六十有余の老体にて執権の老職の由。忠実堅固の人物にて持重(自重?)甚し」とコメントしています。 参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『七年史』一(2002.9.22) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「容保の守護職就任」「京都所司代人事」 |
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