8月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
■容保の守護職就任 【江】文久2年8月2日、会津藩士野村左兵衛(のちの筆頭公用人)らは越前藩士と時事について懇談しました。 「再夢紀事」によれば、この日の午後、兼てからの約束により、越前藩士中根雪江(靱負)は会津藩(留守居役?)野村左兵衛宅に招かれ、同藩士酒井十之丞・長谷部甚平・村田巳三郎とともに訪問しました。そのほか秋月悌次郎、小室金吾、及び宇都宮藩家老間瀬和三郎(のち山陵奉行となった戸田忠至)らが集まり、時事に関して会談しました。なお、野村は「長沼流之軍学家ニ而諸藩にも門人多く会藩第一等の人物なる由にて一藩の依頼たり」と評されています。 <ヒロ> 7月26日に、秋月が中根を訪問した際の「会盟」(こちら)の催しでしょうか? それにしても・・・野村が中根を初招待した席に、のちに山陵奉行(御陵衛士の上司)となった間瀬和三郎(戸田忠至)がいたとは驚きでした。会津藩の横山主税、水戸藩の武田耕雲斎とともに「江戸の三家老」と呼ばれた人物です。間瀬は、のちに先遣隊として上洛した会津藩士田中土佐ら(野村も含む)に依頼されて、宗家の正親町三条実愛に紹介し、三条実美との会見の糸口をつくっています。会津藩と良好な関係にあったわけですが・・・間瀬は会津藩の長沼流軍学を学んでいたそうなので、もしかすると野村の弟子だったのでしょうか。 参考:『再夢紀事・丁卯筆記』(2002.9.25) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「容保の守護職就任」「所司代人事」■守護職日誌文久2 ■長州藩世子の奉勅東下(大赦) 【京】文久2年8月2日、朝廷は、長州藩世子毛利定広に東下周旋に関する沙汰(安政の大獄連座者の赦免等)を下しました。 先月(7月)27日に、長州藩主父子に滞京・東下周旋の朝命が下り、長州藩は世子定広の東下を決定していました(こちら)。この日、議奏中山忠能・正親町三条実愛、・伝奏広橋光成・坊城俊克らは、定広を学習院に召し、東下周旋に関する沙汰書を授け、戊午(安政5年)以降罪に問われた者(安政の大獄連座者)の赦免・殉難者の改葬等の叡旨があることを幕府に諭すよう命じたそうです。 沙汰書は二か条から成っていました。各箇条の要旨は以下の通り。
さらに、定広に対して、勅旨の写しニ通を作って一つは政事総裁職松平春嶽に、もう一つは老中に授けること、口上をもって勅意のあるところを述べること、薩摩藩同様に国事に周旋すること、等もあわせて達したそうです。 <ヒロ> 沙汰書の文中、寺田屋事件の闘死者も触れられていることが、薩摩藩を刺激し、大原重徳による勅諚改竄事件を起こすことになります。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.9.22、2003.7.27、2003.8.2) ■「開国開城」「戊午の密勅と安政の大獄」 「勅書返納問題と桜田門外の変」■テーマ別文久2「安政の大獄関係者の大赦」「長州藩世子の奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄」■長州藩日誌文久2 同日、長州藩主毛利敬親は議奏中山忠能に六箇条の質疑書を提出して朝旨を確認しました。(「六箇条の朝旨」ともいいます) 質疑書の六箇条は以下に要約する通り
これに対して朝廷は、<将軍上洛については幕府で決定済であるので朝廷からは指図しない。春嶽上京も既に勅使が交渉中なので猶予の沙汰は出しがたいが、長門守(定広)出府の上で勅使及び島津久光と熟談し、両人とも同意であれば、勘考するだろう。他はすべてその伺いの通りである>(意訳ヒロ)と回答しました。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.9.22、2003.7.27、2003.8.2) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」「長州藩論一転・破約攘夷へ」■テーマ別文久2年:「幕政改革問題「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」■長州藩日誌文久2 |
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