9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■容保の守護職就任 【江】文久2年8月9日、会津藩家老横山主税は政事総裁職松平春嶽に対して、会津藩の守護職拝命の諸条件を提示しました。(容保はこの時期、病でした)。 この日、横山は春嶽邸を訪ね、昨夜の請書(春嶽が容保に守護職就任を促すために出した書簡こちらの返事?)と「ヶ条書」(条件を並べた書?)を差出し、「此條々御聞済ニ不相成候而ハ御請出来兼候(意訳:これらの条件を聞いていただかねばお受けはできかねません)」と伝えました。横山は別途ニヶ条を越前藩公用人中根雪江にも差し出しており、この二カ条とともに春嶽に見せたところ、春嶽は相談の上返答しようとこたえました。 <ヒロ> う〜む。会津藩は守護職を請ける前から条件闘争を繰り広げていたんですね。(七年史や守護職始末等、会津側通史にはのっていません) 会津藩のこの動きは、前日の春嶽の容保宛書簡のなかに「何卒々々一旦御請にさへ相成候へば、其上の御内願筋等は、乍不及小生尽力申度、是非御都合相成候様、取計申度奉存候」というのがあるのを受けてだろうと思います。春嶽は、口説き文句の一つとして、守護職を引き受けさえすれば、会津藩の内願が適うよう尽力しよう・・・といったわけですが、(そんな口約束あてにならないし?)どうせなら、引き受ける前に条件を出しておこうというあたりでしょうか。なかなかしたたかですが、逆に出した条件が満たされれば、拝命せざるをえなくなってしまうのではないでしょうか。この時点で、会津藩は腹を決めていたのでしょうか・・・。 会津藩の出した条件は「ヶ条書」「二カ条」が伝わっていないのでわからず、残念ですが(わたしが知らないだけ?)、再夢紀事の他の部分から察するに、浪士対策、将軍上洛、所司代人事が含まれていた様子です。といっても、この3点についても、会津藩にこうするべきという強い主張はありそうもなく、(1)浪士対策をどうするか幕府の方針を決めてくれ、(2)将軍早期上洛を約束してくれ(将軍自らの京都守護が会津藩の理想)、(3)所司代を会津が兼任するのは勘弁してくれ(家格の問題もある)、といったところではと推測します。 参考:「再夢紀事」(2003.4.21) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「容保の守護職就任」「所司代人事」■守護職日誌文久2 |
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