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文久2年8月25日(1862.9.18)
【京】土佐藩主山内豊範入京。滞京・京都警衛の沙汰/
久我建通(「四奸」)蟄居・辞官・落飾、今城重子 辞職・落飾
【江】桂小五郎、越前藩邸訪問。

■土佐藩
【京】文久2年8月25日、土佐藩主山内豊範(17歳)が入京し、武家伝奏より、滞京・京都警衛の沙汰及び国事周旋の沙汰を得ました


<ヒロ>
豊範は6月28日に2000名ともいわれる兵(土佐勤王党含む)とともに土佐を出発し、7月12日に大阪に入っていました。

豊範の土佐出立は表向きは参勤交代のための東上が理由でした。しかし、実は、藩内では東上を機に藩主の上京参内を主張するグループ(土佐勤王党)と、幕府を憚って上京に反対するグループ(保守派)が対立していました。

大坂到着時、藩主入京に関する結論は出ていませんでしたが、藩主をはじめ、一行の多くが流行の麻疹にかかり、療養のため滞坂することになりました。この間、入京派の小南五郎右衛門が東下して、容堂の了解を得たため、上京反対派の意見は封じられました。藩主の全快を待って8月23日に大坂を発った一行は、こうして入京することになったのでした。

「土佐勤王党の希望はようやく達せられた」(平尾道雄著『土佐藩』)わけでした。藩主入京後、土佐藩には他藩応接役が設置され、小南五郎右衛門・小原興一郎・谷守部・五十嵐文吉・丁野左右助・や武市半平太・平井収二郎の7人がこれに任じられ、以後、武市・平井は薩長等の激派としきりに往来しました。

参考:『維新土佐勤王史』・『土佐藩』・『維新史』(2003.9.28)
関連:◆文久2年6月28日(1862.7.24)−土佐藩主山内豊範、土佐出立。武市半平太ら随従。

■公武合体派排斥
【京】文久2年8月25日、久我建通(「四奸」)が蟄居・辞官・落飾、今城重子(「ニ嬪」)は辞職・落飾を命じられました

岩倉具視・千種有文・富小路敬直は、8月20日、すでに蟄居・辞官・落飾処分を受けていましたので(こちら)、「四奸」全員が処分を受けたことになります。

参考:『維新史』(2003.9.28)
関連:■テーマ別文久2年「公武合体派排斥

■長州藩と越前藩
【江】文久2年8月25日)夕方、桂小五郎が越前藩邸を訪問し、京都の情勢を語りました。(松平春嶽は前日から登城を拒否していましたこちら)。その概略は以下のとおり。
  • 違勅調印を口実として戊午以前の三港に復すべきとの議論がある
  • 伯州の所司代登用以来、人心・物情が不穏である
  • 町奉行所の加納繁三郎は奸物である
  • 三奸(久世・富小路・岩倉)、二女(宰相内侍・右衛門内侍)、五男(九条家島田・益田、紀州三浦・加納、彦根長野)を当世魔物と称しているる
  • 公家が凋落し、武家が繁栄しているので、属吏が横柄甚だしい
  • 時折は天皇が行幸することを「勤王有志の党」は願っている
その他、薩摩についても語ったそうです。
  • 島津三郎(久光)が登城のおり、褒賞がなかったのは遺憾である。長州としてはこの一件を周旋する心積もりであった。
参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.9.28)
関連:■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事」「幕政改革問題長州藩と越前藩」 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2


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