9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
8/24へ 8/27へ
■土佐藩 【京】文久2年8月25日、土佐藩主山内豊範(17歳)が入京し、武家伝奏より、滞京・京都警衛の沙汰及び国事周旋の沙汰を得ました。 <ヒロ> 豊範は6月28日に2000名ともいわれる兵(土佐勤王党含む)とともに土佐を出発し、7月12日に大阪に入っていました。 豊範の土佐出立は表向きは参勤交代のための東上が理由でした。しかし、実は、藩内では東上を機に藩主の上京参内を主張するグループ(土佐勤王党)と、幕府を憚って上京に反対するグループ(保守派)が対立していました。 大坂到着時、藩主入京に関する結論は出ていませんでしたが、藩主をはじめ、一行の多くが流行の麻疹にかかり、療養のため滞坂することになりました。この間、入京派の小南五郎右衛門が東下して、容堂の了解を得たため、上京反対派の意見は封じられました。藩主の全快を待って8月23日に大坂を発った一行は、こうして入京することになったのでした。 「土佐勤王党の希望はようやく達せられた」(平尾道雄著『土佐藩』)わけでした。藩主入京後、土佐藩には他藩応接役が設置され、小南五郎右衛門・小原興一郎・谷守部・五十嵐文吉・丁野左右助・や武市半平太・平井収二郎の7人がこれに任じられ、以後、武市・平井は薩長等の激派としきりに往来しました。 参考:『維新土佐勤王史』・『土佐藩』・『維新史』(2003.9.28) 関連:◆文久2年6月28日(1862.7.24)−土佐藩主山内豊範、土佐出立。武市半平太ら随従。 ■公武合体派排斥 【京】文久2年8月25日、久我建通(「四奸」)が蟄居・辞官・落飾、今城重子(「ニ嬪」)は辞職・落飾を命じられました。 岩倉具視・千種有文・富小路敬直は、8月20日、すでに蟄居・辞官・落飾処分を受けていましたので(こちら)、「四奸」全員が処分を受けたことになります。 参考:『維新史』(2003.9.28) 関連:■テーマ別文久2年「公武合体派排斥」 ■長州藩と越前藩 【江】文久2年8月25日)夕方、桂小五郎が越前藩邸を訪問し、京都の情勢を語りました。(松平春嶽は前日から登城を拒否していましたこちら)。その概略は以下のとおり。
関連:■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事」「幕政改革問題「長州藩と越前藩」 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2 |
|