9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■大赦の勅諚伝達 【江】文久3年8月24日(1863年9月17日)、長州藩世子毛利定広は江戸城に登城して大赦の勅諚を伝えました。 将軍家茂はこれを拝受し、その後、京都の情勢・開国鎖国の論議・浪士対策などについて質問をしたそうです。後見職の一橋慶喜も同席しており、公家の現状などを質問したそうです。なお、総裁職の松平春嶽は幕府の生麦事件に対する態度をみて幕政改革の実行の困難さを感じ、この日から登城を停止していました(こちら)。 <ヒロ> 幕府のルールによれば、勅諚伝達は、勅使下向あるいは、武家伝奏→京都所司代というルートを経て行われるものでした。(安政の大獄の原因となった戊午の密勅はこのルートを経ずに水戸藩に直接降下されたことが問題視されています)。先に伝達された幕政改革を促す勅諚は薩摩藩の強い意図によるものでしたが、勅使大原重徳によって伝達されました。今回の勅諚は、外様藩のしかも世子が伝達するということとなり、従来のルールを大きく逸脱したものでした。(ルール違反という意味では戊午の密勅と同様ではないでしょうか)。しかし、この件について長州藩は制裁を受けませんでした。しかも、幕府は拝受したのでした(内容が幕府にとって反対すべきものでなかったということもありますが)。ここにも、幕府の権威の低下がうかがえると思います。 参考:『徳川慶喜公伝』・『維新史』)(2003.9.27) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年:「幕政改革問題「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄」「違勅条約&安政の大獄関係者の大赦と処罰 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2( ■生麦事件 【江】文久3年8月24日(1863年9月17日)、生麦事件処理をめぐって幕府と意見の合わない政事総裁職松平春嶽は、登城とりやめを通告しました。 春嶽はこの日、「不快」を理由に登城しませんでしたが、早朝に大目付の岡部長常(駿河守)を呼び出して、生麦事件の処理について、重ねて、(1)久光を引き留めて犯人を差し出させること、(2)老中が上京して事情を説明し、そのまま京都警衛につくこと、の2点について評議するよう指示を出しました。
しかし、夜になって、藩邸を訪れた岡部によれば、評議では、老中上京の件は酒井雅楽頭に書面で、久光の件は大藩なので列藩にも相談すべきだと決まったようでした。。春嶽の方針案とはまるで違うものでした。(失望した)春嶽は、自分はとかく異説を唱えるように思われているのか、これまでの相談ごともうまくいかない(「熟談に相成兼候)ことが多かった・・・登城しても仕方がないので引きこもるので、相談相手にはなれないから一橋公らに宜しく申上げてくれと、岡部に登城停止を通告しました。仰天した岡部は春嶽をいろいろなだめましたが、春嶽の意思は変りませんでした。 参考>「再夢紀事」(2003.9.29) 関連:■開国開城「生麦事件」 ■テーマ別文久2年:「幕政改革問題」「生麦事件」「■越前藩日誌文久2 ■容保の守護職就任 【江】文久3年8月24日(1863年9月17日)、会津藩家老横山主税は守護職の請書を老中水野和泉守に提出しました。 同日、懸案であった所司代人事にもけりがつき、会津藩の希望通り、本庄宗秀は更迭され、後任には長岡藩主の牧野忠恭が任命されました。 参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.25) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事」■守護職日誌文久2 |
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