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文久2年8月29日(1862.9.22)
【江】春嶽、幕府の「私」政を去れという総裁職辞表提出

■幕政改革(春嶽の登城スト)
【江】文久2年8月29日、登城拒否中の政事総裁職松平春嶽は、大目付岡部長常(駿河守)に幕府の「私」政を去れという主意の辞表を渡しました

生麦事件の幕府の処理に失望し(こちら)、8月24日以来登城を拒否(こちら)している春嶽は、この日も登城しませんでした。大目付岡部は春嶽を訪ね、<このほど横井小楠(=越前藩政治顧問)に面会し、目下の急務という国事(=改革のこと)について意見を承り、感服いたしました。即日一橋殿や老中方にも詳細に陳述したところ、御一同にも深く関心され、実行に移すことに内決いたしました。公(=春嶽)の御持論も貫徹することになりましたので速やかに御出勤され、諸事に助言くださるようお願いいたします>と登城再開を要請しました。

ところが、春嶽は登城再開には応ぜず、むしろ辞意を表明しました(<私の意見が採用されるのは本懐である。しかし、私は元来、総裁職の器ではないので、持論があっても説明が行届かず、そのために行われるべきことも行われずに空しく日月を経過したことは、いかにも慙愧に耐えない。最早、出勤をお断り申上げたい覚悟である>)。

岡部は<御出勤にさえなれば御持論の貫徹するように一同力を尽くす心得です>と約束し、登城を促しました。

春嶽はこれに対し、改革事業(「五事」)もさることながら、「幕府の私を去」るとことが「拙者の持論中最も肝要とする處」であるとし、事業を実行する際にも、「天下の為めとあれハやかて公となり幕府の為めとあれハやかて私となる」という違いがあり、この違いが分明でなければ、(事業が実行されても)持論が貫徹したことにはならないと述べました。そして、幕府は私政を去るべきという主意の長文の意見書(タイトルは「愚衷」)を老中に見せるようにと渡しました(こちら)。幕閣が意見書を審議した結果によって、持論が貫徹するかどうかを見極めようというのです。(意見書は辞表の体裁をとっていました)。

また、岡部が小楠を幕政顧問に登用する件について春嶽の意見を聞いたところ、春嶽は簡単には請けられない旨、答えました。(この日、中根靱負は、小楠当人から、受ける気がないので勝(海舟?)に頼んで未発に防ぐよう依頼してくれと頼まれていました。中根は「ニ君に事ふる事は彼れの為さざる所なるへし」とコメントしています)

<ヒロ>
改革事業「五事」については、何のことかちょっとわからないので省略しました。分り次第、追加しますね^^;。

それにしても!やはり、春嶽は幕政参与就任以来説いていた幕政改革が、小楠と岡部の一度の会合で前進することになったことに、かなり複雑な気持ちを抱いていたように受け取れますね?

参考>『続再夢紀事』、『横井小楠<増補版>儒学的正義とは何か』(2003.10.1)
関連:■「資料」【越前】8/29:松平春嶽の「幕府私政を去るべき」を論じた意見書■テーマ別文久2「国是決定:開国VS破約攘夷」」「幕政改革問題」「横井小楠」■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革越前藩日誌文久2 


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