9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

◆8/16へ  ◆8/18へ

文久3年8月17日(1863年9月29日)
【京】公武合体派、17日深夜〜18日未明の政変決行を決定
【京】二条斉敬右大臣、因幡藩主池田慶徳に急ぎ参殿を要請
【大和】大和五條の乱(天誅組、五條代官殺害)

■禁門の政変、前日
(1)朝廷上層部(中川宮・近衛忠煕前関白・二条斉敬右大臣・徳大寺内大臣)、政変決行を決意
【京】文久3年8月17日、朝廷上層部の中川宮、近衛忠煕(前関白)・忠房父子、二条斉敬(右大臣)、徳大寺公純内大臣は、ついに翌18日未明に参内・謁見して「非常の大議」を行う決意を固めました。その時に守護職・所司代も兵を率いて参内すること、また中川宮・二条右大臣の護衛に会津藩が、近衛前関白の護衛に薩摩藩士がつくことも決まりました。いよいよ政変の決行です。

政変の計画案は「私的資料【薩摩】文久3年8月某日 近衛家に提示された政変計画案」を参照。(もっと前の段階の案である可能性もあります)。

例によって、時系列、内容に齟齬がある関連史料から流れを再現してみると・・。
@ 16日夜/17日朝:会津藩から薩摩藩に、中川宮家からの話として、政変決行の密勅が下りたとの急報があった。薩摩藩からは、真偽を確かめるために、高崎左太郎を中川宮に遣わした。 A,B
A 16日夜/17日朝:、中川宮は、左太郎に、勅命は会津・因幡に対してであること、中川宮・薩摩藩が入っていないのは、「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」だということを伝えた。左太郎は、中川宮の指揮が必須であること、ここに及んで他藩(=因幡)に命じられては「不相済」ことを訴えた。さらに、近衛前関白・二条右大臣の同意を取り付けるというので、中川宮も決断した。 A,B
B 17日:二条家には会津藩士秋月悌次郎、近衛家には左太郎が説得に向かい、同意を取り付けた。(徳大寺内大臣にも中川宮が?同意を取り付ける) A,B
C 17日:関係者の密議の結果、17日夜半〜18日未明に決行することになった。 A,B,C, D,E
D 17日夜:孝明天皇は宸翰を下して中川宮を召命した。 F
E 17日夜:中川宮家諸大夫武田相模守より、容保らに参内するよう内達 G

A: 同年8月中(推定)に作成された奈良原幸五郎覚書こちら)
翌十七日四ツ(=朝10時頃)過、会津藩の両人が参り、(彼らが言うには)只今宮へ参殿し、武田相模守から承ったのだが、今日、主上から宮へ「御書」(=宸翰)が下り(注)、その内容は薩・会が申し合わせて早々に奮発せよだというので、飛ぶが如く走って参ったとのことであった。

(薩摩側は)昨日のこと(=天皇が政変の趣意に賛同したにも関わらず内勅を下さなかったこと)もあり、甚だ不審に思い、今一度(宮に)直に伺う方がよいだろうと打ち合わせ、またまた左太郎が参殿して、押して御目通りを願い、直にお伺いした。すると、(宮は)それは間違いである、(天皇からは)「会津・因州申合可為挙事」との御沙汰であり、「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」ゆえ、とても事は成らぬと考え、案じているところだと言われた。

(これを聞いた)左太郎は大いに失望し、色々時勢を歎いた。宮も御同様で、一人も(天皇の)命を奉行する者がないとは、禁中は誠に嘆かわしい次第であると言われた。(左太郎は)二条様は如何でしょうか、あの御方は万事宮様へ御同意で、何事も宮の思召し次第だということは、兼ねてから承知しております、と申し上げた。(中川宮は)二条がいよいよその通りの存意で決心できれば、随分事が行われるだろう、何分、取り次ぎの人もなく、禁中総て暴論家ばかりで、それゆえ昨日も事が成らなかった第一(の原因で)ある、二条が(自分たちの計画に)はまってくれれば、いよいよ(計画が)調うだろう、とのお言葉だった。

(そこで左太郎は)すぐさま退出して会津邸へ向かい、二条様へ右の段を言上するよう言い置き、(自分は)左大将(=近衛忠房)に罷り出て申し上げたところ、(忠房は)十六日(ママ)とは遥かに違い、「以之外御決心ニテ」、この上は、父子ともに参内して尽力いたそう、とのお言葉だとのこと、有難さは筆紙に尽くしがたいものであった。

いよいよ会津藩と入念に打ち合わせ、軍議が一決し、十八日丑の刻(午前2時頃)の上剋、御四方様(=中川宮・近衛前関白父子・二条右大臣)が一時に御参内・御尽力されることになった。御参内の節の御供の議論があり、宮様・二条様は会藩より御供することになった。近衛様御父子は薩州よりお二人に三十人御供をつけ、前刻から上下にて陽明家(=近衛家)に詰め、総勢は御参内に引続き出兵することとなった。
(出所:京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書『玉里島津家史料』ニp426より作成。、()内、下線by管理人)

B.同年11月、伊達宗城が高崎左太郎から聞き取った事情
それから、強情者を連れて酒棲へ参り、酒を飲ませていたところへ、会津藩の秋月がやってて、尹宮へ先刻、御宸筆が下り、急に「處置」すべしとの叡慮を仰せ出されたとの密話に及んだ。左太郎は、今朝(=16日朝)は云々の御沙汰があり、左様仰せられたというのは甚だ覚束なく存じるが、(中川宮に)ら直に伺うので、皆々は帰って待っていろ、と言って、(宮邸に)参殿した。

(宮に)伺ったところ、御宸翰は下されたが、叡慮は、今夜決断・処置せよ、尤も宮も薩も関係は為にならぬので、因州・会津に取り計らわせよ、だったいう密話をされた。左太郎は、<恐れながら、その天意ではとても禍転じて福となすというお運びには至りません。やはり、万事、叡意を奉り、宮にて御指揮されたく、薩摩は後日如何様なる難渋に陥るとも、「此後ニ至他藩へ被仰付而(ママ)不相済」(=この後に及んで他藩へ仰せつけられては相済みません)。会津と手筈を整えてもおります故、そこのところは御案慮あらせられたく。もっとも、この儀は、近衛様二条様へ申し上げ、御一同が御決心されるようお願いし、陽明殿(=近衛家)がもし、過日の如く、お聞き入れにならねば、左太郎が、一命を擲って御諫め申し上げます、と申し上げた。

(中川宮は)その覚悟なら決心致そうとの御意で、直ちに二条殿へは会津より秋月が罷り出た。陽明殿には左太郎が出向き、左大将様(=近衛忠房)へ段々申し上げたところ、迅速に御承知あり、二条殿も御同様だったので、今夜半(=17日夜半)と決定した。薩摩は陽明殿を守衛し、会津は尹宮・二条殿参殿を守衛いたした・・・。
(出所:文久3年11月2日条『伊達宗城在京日記』p209-214より作成。()内、下線by管理人)

C:同年11月、中川宮松平容保同席の下、松平春嶽に語った事情こちら
さて、退朝後、二条右府・近衛左大将・徳大寺内府へ相談したところ、「早朝にてハ御目覚の御都合にて指支」えがあるだろうから、「十七日夜より十八日暁の間に決行」するのがよい、とのことであった。
(出所:文久3年11月7日条『続再夢紀事』ニp224-229より作成。()内、下線by管理人)

D:同年11月、越前藩士中根雪江が秋月悌次郎から聴き取った事情こちら)
十六日に決行の手はずとなり、肩唾を呑んで待っていたが、宮は参内後ほどなく退廷され、何の御沙汰もなく、一時は非常に嘆息した。直ちに宮のもとに参上すると、本日は余儀なき都合で延期となったが明日は夜に入り必ずとの御内旨があったため、いささか安心した。一日延期したので、宮は如何なる変を生ずるかと苦悩され、我々も苦心いたした。翌十七日夜になって国事掛その他諸卿の参内を停止され、薩会より人数を出して諸門を始め、諸所に配置した上で、長州の堺町門警備を解免されたが、長州は容易にその命を奉ぜず、勅使を下されるにいたってやむを得ず持ち場を引き渡すことになった。このとき、薩会の壮士らは「最早戦を開くべし」と申した事もた度々だったが、ついにそのような事もなく引き分れとなった。
(出所:文久3年11月16日条『続再夢紀事』ニp233-235より作成。()内、下線by管理人)

E:広沢安任の手記「鞅掌録」(成立時期不詳)
「・・・(家臣の励ましによって)右府大臣(=二条斉敬右大臣)、大に奮発し自ら任ぜらる。且つ親王(=中川宮)の一たび之を発して今志を摧(くじ)かれ、然して殃(わざわい)を招んを恐れ、之を親王に報ぜらる。親王、又、為に気を興さる。又、近衛前殿下(=近衛忠煕前関白)・徳大寺内府(=徳大寺公純内大臣)は素謀の人なるを以て之を謀らしむ。且つ宮中の職内外の別あり。親王・前殿下には内事を為すを得、右府・左大将(=近衛忠房)・内府は外事を為すを得、前殿下は時に桜木町の下邸に居られしが、此夕より陽明の本殿に移らる。左大将は年壮にして頗る志気ありとす。親王右府の志を聞き、亦決心せらる。内府には固より異心なしとす。

時に親王は、天皇が未だ寐に就かれる前の初更(=戌の刻、午後8時頃)より参内しようと言われたが、右府は、夜半を期すべきである、天皇がたとえ寐に就かれていようとも、天下の大事を議するにあたり、起きていただくことを憚る必要があろうか、と言われたので、遂に夜半を期することになった。折しも、天皇は書を下して親王を召し、謀られようとしたので、親王はこれに応じて、子半刻(=午前1時頃)より参台するので、お待ちになるよう請われた。

夜に入り、親王より一書を玉り、守護職・所司代、子半刻を以て参内せしむと云え、又非常の大議有を以て人数をも率え来るべしという」
(出所:『会津藩庁記録』三より作成。()内、下線、段落分けby管理人)

F『七年史』(明治37年)
近衛前関白殿は通常桜木待ちの別邸におられるが、この夕、陽明殿に移られた。宮は徳大寺内大臣殿に御相談になり、未だ(天皇が)御寝にならない初更より参内する意を告げられたが、内大臣は、夜半を期するほうがよい、主上はたとえ御寝であっても、天下の大事を議するに何を憚る必要があるか、と言われ、ついに夜半を期すことになった。

折しも、主上が宸翰を下して宮を召されたので、宮は、子半刻(=午前1時頃)より参内し、天前で奏しましょう、とお答えになった。
(出所:文久3年8月17日条『七年史』一p1427より作成。()内、下線、段落分けby管理人)

G『京都守護職始末』(明治44年)
翌十七日夜、中川宮、近衛前殿下、同左大将、二条右府、徳大寺内府等同志の人々、急に令旨を下して、非常の大義あるを以て、守護職所司代各人数を率い、翌十八日子の半刻を以て参内すべし、且薩摩藩にも此旨通達すべしと。
(出所:『京都守護職始末』p171-172)

参考:『玉里島津家史料』ニ、『会津藩庁記録』三、『京都守護職始末』、『七年史』一(2004.10.10, 2013.1.20)

【京】文久3年8月17日、因幡藩主池田慶徳は、後見職一橋慶喜(異母弟)に書を送り、13日の親征布告の裏事情を含め、切迫する京都の情勢を報じました。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』ニp459-460(2013.1.20)

【京】文久3年8月17日、二条斉敬右大臣は、因幡藩主池田慶徳に密書を送り、俄かに直面したい事情ができたので、急ぎ参殿するよう求めました。

「只今俄ニ御直面申入度義出来」、遠方御苦労に存じるが、この愚書を見られ次第、早々の御入来を御頼み申し入れる。実に実に差述べ難い事情であるので、御所労気味であっても、押して御急速に御入来、御頼み申し入れる。巨細は、後刻お目にかかっての上で。今晩の儀は、是非是非、少しも早い御入来を待ち入るものである。もっとも、備前殿へもこれより申し入れようと存じる。何分、紛雑中、乱書をもって申し入れる。  極秘。
副書申し入れる。御答に及ばず、少しも早い御入来をお待ちする。
出所:8月17日付因幡中将宛(二条)斉敬書簡(『贈従一位池田慶徳公御伝記』ニp462-463)

<ヒロ>
「只今俄ニ御直面申入度義出来」、これはもちろん、政変計画のことでしょう。これが、二条右大臣にとっても、この日、突然の出来事だったこともわかると思います。それにしても・・・ああ、、二条右大臣は、慶徳・茂政に義理を果たそうとしたんですね・・・。(そりゃあ、二条右大臣にとっては、これまで、攘夷親征を好まぬ天皇のために頑張ってきたのは、会津・薩摩ではなく、因幡・備前ですから。従兄弟というのを抜きにしても・・・)。

しかし、慶徳は動くことができませんでした。数日来、床に伏していた上に・・・↓

同夜、因幡藩の尊攘急進派藩士(伏見留守居役河田佐久馬等)20名が、君側の奸として、同藩御側用人助役・黒部権之介、御小姓頭兼御側役・高沢省己、同早川卓之丞を襲撃・殺害しました。さらに翌18日、彼らの残書により、御側役・加藤十次郎が自害しました。

なぜ、こんなことが・・・(そのうち余話にUPしますね)

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』ニp462-467(2013.1.20)

関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3

■大和五條の乱(天誅組の乱)
【大和】文久3年8月17日夕、攘夷親征の先鋒を標榜する天誅組は天領(幕府領)大和の五條代官所に武装して乗り込み、管轄下の土地引渡しを拒んだ代官鈴木源内ら役人四名、そしてたまたま居合わせたあんまの嘉助を殺害しました。大和五條の乱の始まりです。

代官所で討たれた五人の首は、天誅組が本陣とした桜井寺に運ばれ、翌18日から3日間、路傍に晒されました。罪状の大意は以下のとおり。

<この者共、近年、違勅の幕府の逆意を受け、朝廷を幕府同一と心え、収斂(しゅうれん)をもっぱらとするにより、天誅を加える>

<ヒロ>
鈴木にとっては青天の霹靂のような天誅組の出現と管轄領引渡し要求だったことでしょう。天誅組にそういう朝命(密勅という形ですら)が下っていたわけではなく、当然のことながら、幕府から代官所にそういう指示もありませんでした。鈴木が、引渡しを拒むのも当然です。天誅組は自分たちを正義と信じ、それを阻害する鈴木らを悪として、信念をもって除いたのでしょうが・・・。天誅組に梟首された代官鈴木源内は、圧政を敷いていたわけでもなく、むしろ所領の住民に評判のよい代官だったそうです。(しかも代官所と無関係の嘉助まで殺害・梟首するとは・・・自分たちを絶対正義と信じる者はどんな非道も正当化してしまう・・・恐いですよね)。

参考:『維新史』三、『徳川慶喜公伝』2(2001.9.29、2002.9.29)
関連:■「開国開城」8/10月:大和の乱・生野の乱 ■テーマ別文久3「天誅組

前へ  次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ