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公用方・広沢安任(ひろさわ・やすとう)/広沢富次郎

名前 広沢富次郎(諱:安任 やすとう)、牧老人など。
誕生 天保元年(1830)。会津藩士広沢庄助の長男として会津若松城下に誕生。
死没 明治24年(1891)。東京で死没。62歳。
役職 幕末:文久3年-新番組修業、公用方御雇勤、取調担当。五人扶持。
明治:斗南少参事
小史 会津藩士広沢庄助の次男として誕生。藩校日新館に学び、水戸に遊学して藤田東湖を訪ねたという。熊沢蕃山・野中兼山の経済に傾斜し、学問を修めた後、東西を遊歴。堀織部正が外国奉行に就任(安政5年7月)すると、親交を結んで外国人と往来し、開国説を論じて、世の忌憚に触れるという。また、箱館奉行糟屋義明に招かれて、一時、北海道に渡ったという。文久2年(1862)、京都守護職となった藩主松平容保に先発して上京。文久3年1月の公用方設置とともに、諸生出身ながら公用方に配属された。以後、諸藩士・公卿との折衝にあたり、秋月悌次郎と並んで「内外重大之御用向相荷抜群ニ有之」と評された。同年5月の公卿姉小路公知暗殺事件では、田中新兵衛捕縛に同行。8月の禁門の政変は、薩摩藩士高崎左太郎と広沢らが謀議した結果、起された。開国説の佐久間象山との親交があり、一説に象山と孝明天皇の江戸遷座を謀議したという。元治元年(1874)9月に象山が暗殺されたときには、激文の会津人と交わって公卿を惑わし開国を唱えるというのがあったが、その会津人は広沢と山本覚馬を指すといわれている。また、慶応元年(1865)に兵庫開港問題が持ち上がったときには、諸藩士の集会で開国説を主張。その他、会津藩への洋式軍制の導入、銃砲整備、藩士子弟の海外・長崎遊学等の実現にも尽力したという。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が敗退し、容保が江戸を去って会津に向った後も、総督府に嘆願するために江戸に残ったが、捕縛され、投獄された。(明治以降は略年譜に記す予定です)。
評判 ・「広沢先生、幼にして健剛遅飩、稍長するに及び疎放小事に拘はらず、党私かに指目して曰く、彼子疎大事業に堪えずと、交友相語て曰く、彼れ小事に愚して大事に智なりと。先生毀誉を以て嘗て心頭に置かず、只好んで書を読み文を属し、議論往々人の意表に出つ。是に於て人目するに大器晩成を以てす」
・「東湖か曰く・・・(中略)・・・広沢汝に至ては疎大剛毅礼節に習はす、家に在るの日恐くは陳平の醜名を負ひ、為すところなからん、若し乱世に遭遇せば、雨を呼び風に変し変通測るべからざるものあらんと」(柴四郎「牧老人広沢先生小伝」『旧幕府』)
詩歌 大久保利通の死を悼んだ漢詩などがあるのですが・・・そのうち・・・。

略年譜

天保1
(1830)

会津若松城下に誕生。
・藩校日新館で学ぶ?
・藩士伊東某と水戸に遊学。藤田東湖を訪問して教えを乞うという。(『旧』)
安政4
(1857)
28
江戸の昌平黌に入学。
・熊沢蕃山・野中兼山の経済に傾斜し、学問を修めた後、東西を遊歴。林子平を知り、識見の高さと人柄を慕う。漢儒として身を起す。堀織部正が外国奉行就任(安政5年7月)すると、親交を結んで外国人と往来し、開国説を論じて、世の忌憚に触れるという。(『旧』)
文久2
(1862)
33
閏8/1-容保、幕命により登城し、将軍から京都守護職に任ぜられる
■彦根藩の情勢を探る為に先発上京したという。(『幕末会津藩』)←出典調べ中。
12/24−容保着京(会津藩事件簿:上京)
文久3
(1863)
34
1/7-会津藩、京都に公用方を設置。広沢は新番組修業、公用方御雇勤、取調担当。五人扶持。(『藩』)←新番組士は花色紐で切符取り(「基礎知識」「主要役職(紐色別)」。修業はよくわからない。俸禄からみると扶持米取りは襟制になる(「基礎知識」「紐制・襟制」)。う〜ん。
4/11-石清水行幸。二条右大臣からの連絡で、広沢・秋月、御所警備にあたる。【詳しく
4/21-将軍下坂。外島機兵衛広沢、壬生浪士を引率して将軍警衛。(詳しく)
5/25-公卿姉小路公知暗殺犯と目される薩摩藩士田中新兵衛逮捕に、会津藩は物頭安藤九左衛門に兵を率いさせ、公用局からは外島、松阪、広沢を同行させる(詳しく)
6/3-容保、公用局の小野権之丞、外島機兵衛、秋月悌次郎広沢らを淀に送って老中格小笠原長行入京の不可を説かせる。(七)【詳しく】
6/26−容保、東下問題で、家臣に公卿を説得させる(野村左兵衛を三条実美、小野・小室を鷹司関白、大野を徳大寺、広沢を豊岡、秋月を長谷に派遣)
7/30-雨中、会津藩の天覧馬揃え決行。町奉行瀧川播磨守、広沢と会談(七)(詳しく)
8/13-薩摩藩の高崎佐太郎が、秋月、広沢、大野英馬、柴秀治らを訪問し、政変を相談。(七)【詳しく】
8/18禁門の政変(8.18の政変)
9/23-広沢・大野英馬、宮川音五郎の近藤勇東下要請に対して、断りの書簡を記す。
元治1
(1864)
35
2/11-広沢、容保の諮問に対し、征長軍副総督と陸軍総裁職拝命を主張((詳しく)。
3/1広沢、長使入京不可を越前藩士中根雪江に論ず。(詳しく)
3月-会津付札に秋月・広沢等は「内外重大之御用向相荷抜群ニ有之」と記される(『藩』四)
6/5池田屋事件(1) (2)後に、会津藩士柴司が土佐藩士を誤殺した明保野亭事件で、手代木・小室・広沢が土佐藩との折衝にあたる。
7/11-佐久間象山暗殺。「広沢先生小伝」によれば、広沢は日頃から象山と交流があった。象山暗殺の檄文に、会津人と交わって公卿を惑わし開国を唱えるというのがあり、その会津人は広沢と山本覚馬を指すという。た、数年前に『THIS IS 読売』で発表された広沢直筆文書には、象山の暗殺理由は江戸遷都を謀議していたと書かれているそうだ。
7/19禁門(蛤御門)の変
8/2−野村・広沢、老中阿部正外とともに将軍上洛要請のため東下。(野村らは幕閣には1月以上逢えず)
9/28広沢帰京
慶応1
(1865)
36
1/22-広沢、上田久兵衛(肥後藩留守居)と懇話(上田久兵衛の日記・書状:以下「上」)
5/30-広沢・大野・司馬、上田を訪問(「上」)
6/3-上田・松浦秀八(桑名藩)・久徳与十郎(久留米藩留守居)らと水明楼で集会。会津からは外島・野村・小野・広沢・柴・大野ら。(「上」)
6/8-外島・広沢、松浦と会談(「上」)
6/27-広沢、上田を訪問。(「上」)
7/1-上田、広沢に書簡を認める(「上」)
7/28-登嘉久楼で集会(酒宴?)。会津からは小野・手代木・外島・柴・広沢。土佐から小笠原只八・手嶋源四郎・ら。肥後から上田ら。(「上」)
8/25-広沢、上田を訪ね、前々日の瀧川下坂について前日に一橋慶喜より聞いた話を伝える。(「上」)
9/24-広沢、松浦(桑名)、肥後藩森井惣四郎と兵庫へ(「上」)
9/25-広沢、松浦とともに兵庫から戻る(「上」)
9/26-老中阿部正外・松前崇広、勅許なしで兵庫開港を四国代表に約束
9/29-朝廷、両老中の罷免を要求
10/1-広沢、小笠原長行に諫言する予定(「上」)
この頃?広沢、兵庫開港に関する10万石以上の諸藩士の集会に参加。開国説を主張(『旧』)
10/22-広沢、上田に書簡(「上」)
11/21-広沢、上田を訪ね、小笠原長行の命(横浜に諸藩が出兵)に不同意と語る(「上」)
12/13-広沢、中川宮に謁し、上田の帰国中止を肥後藩に周旋するよう願い出る(「上」)
*「今日の幕末京都」で慶応元年に行き着いたときに、フォローしますね。
慶応2
(1866)
37
以降、今日」で慶応2年に行き着いたときにフォローしますね。
慶応3
(1867)
38
10/14大政奉還
12/9王政復古の号令
慶応4
/明治1
(1868)
39
1月鳥羽伏見の戦い勃発
以降 http://www.ja-aomori.or.jp/chuoukai/
(2004.6.26)


<参考>
『会津藩庁記録』、『再夢紀事・丁卯日記』、『続再夢紀事』、『七年史』、『倒幕政治と幕末運動』
『幕末会津藩』、『明治維新人物辞典』、『旧幕府』、『京都守護職始末』
『幕末京都の朝廷と政局 ー肥後藩京都留守居役の書状・日記からみたー』
『闇はわれとともにあり 山本覚馬伝』


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