会津藩士列伝トップ 守護職会津藩トップ HPトップ


公用人・外島機兵衛 (としま・きへえ)

名前 外島機兵衛(諱:義直)
誕生 文政9年(1826)。会津藩士堀藤左衛門次男として誕生。外島家を継ぐ。
死没 慶応4年(1868)3月、江戸で病没。享年数え43歳。
役職 目付⇒勘定奉行助⇒学校奉行助⇒江戸留守居役⇒京都常詰御聞番御内用⇒御聞番御内用勤・公用人兼務⇒公用人のまま御聞番御内用兼務⇒勘定奉行兼務
小史 勘定奉行助・学校奉行助を歴任して江戸留守居役に就任。留守居役就任前後の文久元年(1861)に、桜田門外の変後の幕府と水戸藩の融和をはかるため、容保の命で秋月悌次郎 とともにに水戸藩の事情を探索した()。文久2年(1862)閏8月、容保が京都守護職を拝命すると、田中土佐(家老)・野村左兵衛らと先発して京都の事情を探索し、尊攘激派公卿の三条実美らと面談し、容保に三港外閉鎖を建議した()。また、三条を通して勅使待遇改正周旋依頼を受け、野村と江戸に戻り、容保に報告した(★)。同年末、容保に随従して上洛して、野村とともに、公用人小森久太郎を支え、翌文久3年(1863)秋には野村とともに公用人に任命された。激派公卿姉小路公知暗殺事件では、武家伝奏より容疑者の薩摩藩士田中新兵衛捕縛の命を受け、田中を説得して連行した()。また、容保の命を受け、しばしば京都と江戸を往復した。慶応3年(1867)、勘定奉行兼務となり、翌慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いでは糧食を手配。敗戦後、再戦を主張する佐川官兵衛を説得し、全ての藩士を撤収させた。江戸では容保に恭順論を説き、総督府への陳情のため、容保帰国後も江戸に留まった。しかし、3月、病で急死した。
逸話 会津藩士が田中新兵衛を連行したときき激怒し、薩摩藩士内田仲之助・伊勢勘兵衛が黒谷の会津本陣に抗議に訪れた。このとき応対した外島は、「天朝の特命は捕縛にあり。されど相互武士道を重んずるが為めに、朝命を宣べて、同行せしに過ぎず。想ふに貴藩、もし此命を奉ぜらるえば、又此の如きの他ならん」と答えたという。
詩歌 調査中。

略年譜

文政9
(1826)

誕生。その後、外島家に養子に入り、目付⇒勘定奉行助⇒学校奉行助を歴任。
文久1
(1861)
36
3月−桜田門外の変後の幕府と水戸藩の融和をはかる容保の命で秋月悌次郎 とともにに水戸藩の事情探索。(『京』)【こちら
*この前後?に江戸留守居役に就任。
文久2
(1862)
37
閏8/1-容保、幕命により登城し、将軍から京都守護職に任ぜられる
■田中土佐(家老)、野村左兵衛外島機兵衛、小室金左衛門(小室金吾)、川原善左衛門、宗像真太郎、大庭恭平ら、先遣隊として京都に派遣される。柴太一郎の先導で三条実美と面会。京都の情勢を鑑み建白書作成【こちら】(『京』、『七』)
10/5-三条、野村外島に勅使待遇改正周旋依頼の内沙汰。(『家』)【こちら
12月−容保に随従して上京(京都常詰御聞番御内用)
文久3
(1863)
38
不明-土佐藩平井収二郎、容保を訪問し、名分を説く。帰り際、外島に在江戸の山内容堂が異論をもっているので同志300人と死を以て諌めることを考えていると延べる(「鞅掌録」『藩』3p379)(こちら)
1/28-容保の命で、外島、丹羽勘解由とともに将軍上洛を促すために京都を出立(こちら)(『七』)
3/6−会津藩士、学習院におしかけ木像鳩首事件犯人釈放に抗議(慶、藩)。容保は外島を遣わして退かせる(七)。
4/21-外島、公用方広沢安任とともに壬生浪士を率いて下坂。(こちら
5/25外島、武家伝奏に命じられ、朔平門外の変(★)の姉小路公知暗殺容疑者・薩摩藩士田中新兵衛の捕縛へ向う。(『七』)【こちら
6/3-容保、小野権之丞外島秋月悌次郎・広沢安任らを淀に送って老中格小笠原長行入京の不可を説かせる(『七』)。
8月禁門の政変(8.18の政変)
−御聞番御内用勤・公用人兼務に。(『藩』4、p539)
元治1
(1864)
39
2/16-・手代木直右衛門・外島機兵衛、一橋邸の集会に参加する(こちら
4月−将軍家茂より、会津藩士横山常徳(主税)野村・小室金吾・小野・手代木直右衛門・外島が召しだされ、これまでの努力を称されて時服を賜る。
6月池田屋事件(1) (2
7月禁門(蛤御門)の変
*この年、「公用人のまま御聞番御内用兼務」に(『藩』4、p539)。⇒公用方権力拡大
慶応1
(1865)
40
4/2外島、容保の命で、将軍上洛要請のため東下。(『七』)
4/22−帰京。(『七』)
5/6外島、幕府目付由比図書とともに、老中と将軍上洛について面談。入朝問題に容保の尽力を乞われる。(『七』)
6/3-上田久兵衛(肥後藩留守居)・松浦秀八(桑名藩)・久徳与十郎(久留米藩留守居)らと水明楼で集会。会津からは外島・野村・小野・広沢・柴・大野ら。((上田久兵衛の日記・書状:以下「上」)「上」)
6/8-外島・広沢、松浦と会談(「上」)
7/28-登嘉久楼で集会(酒宴?)。会津からは小野・手代木・外島・柴・広沢。土佐から小笠原只八・手嶋源四郎・ら。肥後から上田ら。(「上」)
10/12−薩摩藩大久保、外島を通した会津藩の関係修復申し込みを拒絶(『大久保利通関係文書』1 p338)
慶応2
(1866)
41
調査中
慶応3
(1867)
42
2/24外島・倉田、老中訪問。容保の守護職辞職東帰を請う,
10/2外島手代木とともに土佐藩後藤象二郎と会談
10/14大政奉還
11/15
−幕府若年寄格永井尚志は、越前藩中根雪江に対し、会津藩は専ら幕府復権の主張であり、手代木・外島も同様だと述べる。(「丁」)【詳細
12/9王政復古の号令
慶応4
/明治1
(1868)
43
1月鳥羽伏見の戦い勃発。糧食を手配。全ての藩士を撤収させる。
2月−恭順を主張し、容保帰国後も総督府陳情のため江戸残留。
3月−江戸で病没


<参考>
『会津藩庁記録』、『再夢紀事・丁卯日記』、『七年史』、『会津松平家譜』、『京都守護職始末』
『幕末政治と倒幕運動』、
『会津人物事典(武士編)』、『幕末会津藩』、『明治維新人物事典』


会津藩士列伝トップ 京都守護職会津藩トップ HPトップ