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徳川慶喜の略年譜

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天保8
(1837)
1
水戸藩主徳川斉昭の七男として江戸藩邸で誕生。母は正妻の登見宮吉子。松平七郎麿を名乗る(御三家は世子のみ徳川姓で残りは松平姓を名乗る)
天保9
(1838)
2 水戸へ。以後、水戸で養育される。
弘化11
(1840)
4 父斉昭、幕府の特別許可をもらい、藩政改革のため水戸に帰国。
天保12
(1841)
5 藩校弘道館完成。
弘化1
(1844)
8 5月−斉昭、追鳥狩を行い、幕府の嫌疑を受けて蟄居謹慎。
11月−斉昭の謹慎が解かれる。
弘化4
(1847)
11 9月−一橋家相続
12月−元服し、将軍家慶の一字をとって「慶喜」を名乗る。
安政5
(1858)
22 5月−将軍家定の後継に紀州藩主徳川慶福(=家茂)が指名され、一橋慶喜擁立派敗北。大老井伊、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。
6月−無断調印に抗議して父斉昭ほか一橋派諸侯とともに不時登城。
7月−登城停止処分を受ける。
8月−戊午の密勅降下。安政の大獄が始まる。
安政3〜5:将軍後継問題と条約勅許問題)(安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄
安政6
(1859)
23 8月−隠居謹慎を命ぜられる。
万延1
(1860)
24 3月−桜田門外の変 (安政6〜7:勅書返納問題と桜田門外の変)
8月−斉昭死去
9月−謹慎が解かれる(面会文通禁止)
文久2
(1862)
26 4月−面会文通許される。
7月−一橋家再相続・後見職就任
 文久2年の幕政改革を行う。(勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革) 
12月−江戸を出発し、上洛。
文久3
(1863)
27 1月−初参内。孝明天皇に会う。(1/2月:後見職・総裁職の上洛と攘夷期限約束)
3月−将軍上洛。大政委任の勅書獲得周旋。(3月:将軍上洛と大政委任問題
4月−生麦事件交渉のため、京都を出て江戸に帰る。(5/6月:幕府の生麦償金交付と老中小笠原の率兵上洛)
8月−会薩・中川宮連合による8.18の政変
10月−江戸を出発し、再上洛。
12月−朝廷参与に任ぜられる。(12月:政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立
元治1
(1864)
28 3月−慶喜、参与辞任。後見職を罷免され、禁裏守衛総督に任ぜられる
7月−禁門の変。慶喜、御所警備を指揮。
12月−慶喜、天狗党追討軍を指揮し、近江へ出陣。
慶応1
(1865)
29 10月−条約勅許獲得に尽力。
慶応2
(1866)
30 1月−薩長同盟
6月ー第二次長州征伐開始
7月−将軍家茂死去
8月−慶喜、禁裏守衛総督辞任・徳川宗家相続
12月−慶喜、第十五代将軍就任。孝明天皇死去。
慶応3
(1867)
31 5月−慶喜、兵庫開港勅許獲得
10月−慶喜、大政奉還。将軍職辞表提出(保留)
12月−王政復古。慶喜、二条城退去・下坂。
慶応4/
明治1
(1868)
32 1月−鳥羽伏見の戦。慶喜、大坂城を抜け出し、海路江戸へ。慶喜追討令が出る。
2月−慶喜、上野寛永寺に蟄居謹慎。
4月−慶喜、江戸退去・水戸へ。江戸開城。
7月−慶喜、水戸退去・駿府の宝台院で謹慎。
明治2
(1869)
33 慶喜の謹慎が解かれる。(駿府に留まる)
明治13
(1880)
44 正二位に。
明治30
(1897)
61 東京へ移住
明治31
(1898)
62 維新後、初参内。
明治32
(1899)
63 公爵に。
大正2
(1813)
77 死去。


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<参考資料>:『徳川慶喜公伝』


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