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15代将軍 徳川(一橋)慶喜& 幕府

慶喜 基本データ 略年譜 年表&日誌 余話&評判
幕府 基本データ 略年譜 組織・制度 幕閣・幕臣・大奥

<徳川慶喜の小史>
天保8(1837) 水戸藩の公子として誕生
第15代将軍徳川慶喜は第9代水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保8年(1837)に誕生した。母親は有栖川宮家の登美宮吉子(文明夫人)。父・斉昭は水戸藩の天保改革を推進中である。慶喜は水戸で育ち、藩校弘道館で会沢正志斎・青山延光に教育を受けた。弘化元年(1844)、父斉昭が隠居・蟄居に処せられ、後継には長兄の慶篤(13歳)が就いた。

弘化4(1847)一橋家相続
弘化4年(1837)、慶喜は、将軍家慶の命により、11歳で御三卿・一橋家を相続した。(家慶の父家斉が一橋家出身であり、家慶は一橋系である)。

安政6(1859)隠居・謹慎
安政5年(1858)、13代将軍家定の後継問題では、紀州藩主家茂とともに有力候補となり、家茂を推す南紀派と慶喜を推す一橋派が対立した。一橋派は幕政改革派であり、南紀派は保守派でもあったので、将軍後継問題は政治体制をめぐる対立でもあった。同年4月に南紀派の井伊直弼が大老に就任し、5月、家茂が後継に任命されて一橋派は敗北した。6月、幕府が勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、慶喜は実父斉昭らと登城して大老井伊を詰問したが、7月不時登城を理由に登城停止に処せられ、安政6年(1859)8月には隠居・謹慎を命じられた(23歳)。(関連)

文久2(1837)朝廷・外様の圧力で後見職就任
慶喜は2年8ヶ月の謹慎を経て、文久2年(1862)4月、他人面会・通信を許された。さらに、東下した勅使大原重徳及び薩摩藩島津久光の圧力により、同年7月に一橋家再相続を命じられ、将軍後見職に就任した(26歳)。慶喜は政事総裁職に就任した越前藩主松平春嶽とともに、参勤交替の廃止・軍制改革等、文久の幕政改革を行った(関連)

■文久2(1837)攘夷奉勅問題と公武合体派連合
懸案である攘夷奉勅問題については、当初幕府は慶喜の意見を容れて、慶喜上洛・開国奏上に決めていたが、一転し、翌年春の将軍上洛・攘夷奉勅と決まった(関連)。将軍に先発して上洛をすることになった慶喜は、京都の尊攘派勢力(関連)を抑えるために大兵を率いての武力制圧を考えたが、結局、春嶽の公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策で臨むことになった(関連)。

文久3(1863)上京・公武合体派連合策の挫折
明けて文久3年(1863)1月に入京した慶喜(27歳)は、春嶽らと公武合体派の勢力を挽回しようとしたが果たせず、公武合体派連合策は挫折した(関連)。また、尊攘派に迫られ、将軍帰府後20日以内の攘夷期限を約束した(関連)。3月、慶喜は上洛した将軍とともに孝明天皇の賀茂行幸に供奉し(関連)、4月には破約攘夷(横浜鎖港)を名目に京都を出立し、5月に帰府した。

文久3(1837)幕府の率兵上洛計画再び
一方、江戸では老中格小笠原長行の率兵上洛計画が持ち上がっていた。慶喜も同行する予定だったが、病気を理由に直前でみあわせた。小笠原は海路大坂に入ったが、在京の将軍・守護職会津藩らの反対で入京できず、率兵上洛は失敗した(関連)。しかし、8月には孝明天皇の承認の下、会津藩・薩摩藩の連携による禁門の政変(8.18の政変)が起り、長州藩や朝廷内の尊攘派勢力は一掃された(関連)

文久3(1837) 朝廷参与就任
慶喜は、政変後の11月に再び上洛し、松平春嶽、松平容保、山内容堂、伊達宗城、島津久光ら公武合体派諸侯とともに朝廷参与に任命された。文久2年の公武合体派連合策が実現したわけだが、参与会議は朝廷直属の諮問機関であり、幕府と独立した権力である。参与会議は朝廷を開国論でまとめつつあったが、翌元治元年(1864)1月、将軍家茂と幕閣が上洛すると、慶喜は彼等の方針に従って鎖国論に転じた。さらに慶喜は春嶽らを「天下の愚物」と呼び、参与会議は崩壊した(関連)

■元治1(1837) 禁裏守衛総督就任
同年(元治元年)3月、慶喜(28歳)は将軍後見職を辞任し、代って禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任した(28歳)。参与のときと同様、任命したのは朝廷である。慶喜は、7月の禁門の変では禁裏守衛総督として兵を率い、京都に攻め込んだ長州勢を敗走させた。幕府は勅命を得て「長州征伐」を行い(第一次幕長戦)、長州藩は降伏した。

慶応1(1865) 兵庫開港をめぐり老中と対立、条約勅許を獲得
翌慶応元年(1865)閏5月、第二次征長戦のために将軍家茂が大坂に入城し、大坂の将軍・老中VS京都の禁裏守衛総督慶喜(29歳)という権力の二重構造が出来した。慶喜の周旋もあり、再征の勅許は得られたが、将軍滞坂中の9月、英・仏・蘭・露の四国艦隊が大坂に入港し、条約勅許と兵庫開港を求めるという事件が起った。幕府主導の政治体制を志向する老中は勅許なしの兵庫開港を決定し、朝廷の意思を重視して開港には反対の慶喜と鋭く対立した。老中は朝廷に罷免され、家茂は将軍職を辞任して後任には慶喜を推すと言い残して東帰の途についた。慶喜は家茂を説得し、家茂は東帰をとりやめた。その後、慶喜の働きにより、幕府は条約勅許を獲得した(兵庫開港は取止め)。

慶応2(1866)15代将軍就任
慶応2年(1866)6月、第2次征長戦が始まったが、戦況は幕府に不利に展開し、7月には将軍家茂が大坂城で病没した。 慶喜(30歳)は8月、徳川宗家を相続し、自ら征長戦に出陣する準備を進めたが、幕軍は既に敗走を始めていた。このため出陣中止とし、勝海舟に休戦の交渉にあたらせた。12月、慶喜は将軍宣下を受けたが、その20日後、孝明天皇が死去した。即位した明治天皇は15歳。外祖父は反幕派の中山忠能である。

慶応の幕政改革(軍制改革)
準備中

長州処分と兵庫開港勅許
準備中

大政奉還
準備中

王政復古
準備中

江戸へ敗走・謹慎
準備中
(↑改元の年は改元後の年号で表記しています)

主要参考文献:『徳川慶喜公伝』・『徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版』

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