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文久3年3月3日(1863.4.20)
【京】政権返上:総裁職松平春嶽、将軍家茂に辞任を勧告
【京】浪士対策:朝廷、江州浪人の捕縛は慎重にと命じる
【京】浪士組東帰:関白鷹司輔熙、鵜殿鳩翁に浪士組に東帰を命じる?

■大政委任vs政権返上
【京】文久3年3月3日、京都へ向かう将軍家茂を大津で迎えた松平春嶽は、最近の情勢に顧みて、将軍辞職を勧告しました。

春嶽の申し立ては以下の通り。
昨年来、幕府が旧制に拘らず、追々「朝廷尊崇の實」を挙げられ、かつ一橋中納言や自分も先発上京して専ら公武合体一和に尽力してきたが、今日にいたって未だに「寸分の實効」もみられない。
自分たちの非才をもってこのような次第となったのは勿論である。だが、最近の情勢を顧みれば、「道理に依りて事を成す」ことは不可能である。この上は「将軍職を辞」される外ない。自分も「道理の行われさる世」にあって重職を汚すつもりはないので速やかに辞職する覚悟である

<ヒロ>
ここでは明確ではないのですが、春嶽のいう将軍辞職は政権返上とセットになっています(こちら)。将家茂がどこまで理解したか不明です・・・。

○おさらい
将軍に先立って上京していた後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽春嶽は、長州藩を後ろ盾にする尊攘急進派の勢力を覆すことができず、それどころか、実行不可能な攘夷の期限を将軍滞京10日・帰府後20日以内と約束し(こちら)、さらには期限は4月中旬だと回答していました(こちら)。また、浪士の横行も、朝廷が「暗に其所為を庇護」するため、幕府が処置することは容易にもかかわらず、放置せねばならない状況でした。

慶喜と春嶽は、事態を打開するには大政委任(政令帰一)か政権返上しかないという点で一致し(こちら)、2月21日、関白鷹司輔熙に二者択一を迫りましたが、関白らは、「蔭武者」を後ろ盾にする急進派の「激論」を挙げて自信がないといい、御前会議開催を求めても自分たちだけでは判断できないと難色を示しました。このとき、関白は将軍上洛時には大政委任の沙汰があるよう計らうと述べましたが(こちら)、春嶽はまともにとらなかったようです。

失望した春嶽は、2月30日に重臣たちに進退を協議させた結果、将軍上洛後に辞表を提出することを決めていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』一p399-400、『横井小楠 儒学的正義とな何か』(2004.4.22)
関連:■テーマ別文久2年:「国是決定:奉勅攘夷VS開国上奏」文久3年「攘夷期限」「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」■開国開城:「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年
■浪士対策
【京】文久3年3月3日、朝廷は、後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽に江州に集結する浪人の取り締まりは穏便にするように申し入れました。

伝奏からの達文は以下の通り
<江州八幡へ浮浪の者共が集会しており、捕縛の人数を差し出すという風聞もあるが、右の者らは元々有志の輩であるとのことであり、穏便の処置があるよう其の筋へ下知あるようにと関白殿が命ぜられたので、申し入れる>(口語訳by管理人)

前日の中川宮の内旨(こちら)とは齟齬があるので、春嶽は、村田巳三郎を中川宮に派遣し、文面を修正するよう求めました。

<ヒロ>
前日の中川宮の話では、鵜殿鳩翁と浪士組が出動するはずだったのですが、やはり議奏ら激派公卿の反対が強かったのでしょうか。関白鷹司輔熙は尻込みしてしまったようです。

ところで、このことからは、朝廷は、浪士組を幕府の一部だとしかみていないこと、「有志」浪士への脅威だととらえていることが推測できると思います。いくら清河八郎が尊王攘夷の建白を学習院に提出しても(こちら)、朝廷(激派公卿)の彼らに対する認識はその程度だったのですね・・・。

参考:『続再夢紀事』一(2001.4.20, 2004.4.22)
関連:■テーマ別文久3年:「浪士対策」■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策

■浪士組東帰
【京】文久3年3月3日、鵜殿鳩翁・山岡鉄太郎に浪士組を東帰させるよう命じられました。
「              浪人奉行 
                   鵜殿鳩翁
               同取扱役
                   山岡鉄太郎

今般横浜港へ英吉利軍艦渡来、昨戊念八月武州生麦ニ於テ薩人斬夷之事件ヨリ三カ条申立、何レモ難聞届筋ニ付其旨及応接候間、既ニ兵端ヲ開クヤモ難計、寄って其方召連候浪人共、速ニ東下致シ粉骨砕身可励忠誠候也

      文久三年三月三日」

<ヒロ>
諸資料には、関白鷹司輔熙からの命令だというように書いてあります。しかし、関白が幕府(後見職・総裁職)を飛び越えて幕臣に直接命令するというのは不思議な気がします。こんな前例ができたら、政令帰一どころじゃなくなりますよね。もちろん、幕府とは事前協議はあったでしょうし、幕府は浪士組東帰を既に決めていましたから(こちら)、東帰させること自体に異論はなかったはずです。しかし、朝命の場合、間接的な命令形式(たとえば「〜と関白が命ぜられたのでその旨鵜殿に命じるよう申し入れる」みたいなもの)が普通じゃないかと、素人ながら思うのですが・・・。水戸藩への東帰の朝命でさえ、伝奏を通して慶喜に伝えられていますし、文面も慶喜にアクションを促す形式です(こちら)。う〜ん。これ、朝命を受けての幕命だという可能性はないんでしょうか、文面も「攘夷のお固め」という言葉が抜けていますし(「浪人奉行」にはひっかかりますが。もっと調べてみようと思います)。

さて、とりあえず、朝命だったとして、浪士組は、2月30日に朝廷に攘夷のための東下命令を出してほしいと願い出ていますから(こちら)、形式上はその回答になるのかもしれません。しかし、江州浪士の鎮撫を鵜殿(と浪士組)に任せる案をめぐる朝廷(激派公卿)の動きをみていると、浪士組は、尽忠報国(尊王攘夷)の有志だとはみなされておらず、逆に「有志」浪士(ひいては激派公卿)と敵対する可能性のある幕府組織だとみられているようです。実のところは、朝廷は、浪士組にこれ以上滞京されることに脅威を感じ、体よく追い払った・・・というへんじゃないのかと推測しています。

可能性としては、水戸藩の場合のように、浪士組東帰を既に決めていた幕府方(こちら)が関白に達文を出すよう要請したということも考えられるとは思います。水戸藩の上京は朝命により幕府が命じたものですから、東帰にもまず朝命が必要だったわけですが、浪士組は幕府が募集したものですから、朝命は必須ではありませんが。浪士組が幕府と朝廷と両方に上書を出したので、朝廷からの言葉も必要だと感じられたということでしょうか。いずれにしても、幕府は朝廷が幕臣に直接命令する形にならないよう周旋したと思うのですが・・・。(堂々めぐり^^;)。

追記:
俣野時中の史談によれば、このときの達文は二条城を経た正式なものだったそうです。つまり、伝奏→所司代というルートを経たということだろうと思います。朝命を受けての幕命ということになるんでしょうか・・・。

参考:『史談会速記録』・『新撰組史録』・『清河八郎』(2003.4.27、2004.4.20, 4.24)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

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