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文久3年2月21日(1863.4.8)
【京】政令帰一:慶喜・春嶽・容保・容堂、鷹司関白に政令帰一を迫る。
関白、決断できず、御前会議開催にも難色を示す。

■政令帰一(大政委任)問題
【京】文久3年2月21日、後見職一橋慶喜らは鷹司関白・近衛前関白に対して、大政委任か政権返上かの二者択一を迫りましたが、関白らは自信がないといい、さらに御前会議を開くことにも難色を示しました。なお、将軍上洛時には大政委任の沙汰があるよう計らうと述べました。

この日、後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽・守護職松平容保・前土佐藩主山内容堂は、近衛前関白邸を訪問しました。近衛邸には中川宮(青蓮院宮)・関白鷹司輔熙も来ていました。

やり取りは以下の通り

慶喜
近来政令が二途から出て人心の方向が一定しないので、朝廷の方が旧来通り百事幕府に委任されるか、幕府の方が将軍を辞職して政権を朝廷に返上するか、どちらかでなくては天下は治まりません(=もとは春嶽の持論こちら
鷹司関白 もっともだが、「目下関白は少しも威権なく」、11日夜(=久坂・轟・寺島、急進派公卿が関白邸に列参して攘夷期限決定などを迫った件こちら)もわたしは不都合だと思ったのだが、(急進派が)あまりに「強迫せし故」やむをえず中川宮らへも相談して、決行したほどなのである
近衛前関白 このごろ宮中の実情だが、近侍までがことごとく「激論家」なので、天皇は実は深く厭われており、手許の御用も大方は女房を使われ、近侍を疎外されているほどのことだ(と涙を流した)
鷹司関白 その「激論」も公家だけであれば関白でどのようにも取締まるのだが、これ(=公家の激論)は「蔭武者のその後ろに蜀けるものありての事なれば」その者らの取締りは幕府を頼むほかない

慶喜
(このままでは大政委任か政権返上かは容易に決定できないとみて鷹司・近衛らとともに一同が参内し、天皇の前で会議を開くようにと提案)
鷹司関白 伝奏・議奏を省いて御前会議を開いては後日紛糾するので、(会議開催は)両職(=議奏・伝奏)を説得の上、取り計らうべきである。

もっとも庶政委任については、もちろん将軍が上洛すれば改めて天皇から沙汰があるよう計らうが、それまでは後見職・総裁職がこれまで仰せ出された心得をもとに万事処置するように。

慶喜らは、大政委任か政権返上かという決定をこの場で得ることは難しいと判断し、夜になって退出しました。

参考>『続再夢紀事』一p383−385(2003.4.19)
関連:◆文久3年2月19日 (1863.4.6)−春嶽、慶喜らに政令帰一(大政委任)か政権返上の二者択一を論じる ■テーマ別:「攘夷期限」「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」■開国開城:「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌
その他の動き
【京】一橋邸に春嶽・容保・宗城参集。(『伊達』p138-140)

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