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■大政委任か大政奉還 【京】文久3年2月19日、所司代邸にて、総裁職松平春嶽が後見職一橋慶喜らに対して、大政(庶政)委任か大政奉還の二者択一を論じたところ、一同と意見が一致しました。 ●経緯 前文久2年12月から文久3年2月上旬にかけて、慶喜・春嶽・容保・容堂ら公武合体派が次々と入京したものの、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の勢いは増すばかりでした。浪士による「天誅」や脅迫が横行し、1月23日には公武合体派の近衛忠煕が関白を辞し、後任には親長州の鷹司輔煕が就きました。2月13日には、国事を議論する場として新たに国事参政・寄人が設置され、三条実美・姉小路公知を始めとして、定員14名中13名に急進派が任命されました(こちら)。 慶喜らは、攘夷期限設定を迫られ、2月11日には、到底実行不可能な将軍滞京10日・帰府後20日以内の攘夷を約束し(こちら)、次いで14日には期限を4月中旬とする上書を出しました(こちら)。また、同日、浪士対策として、(1)脱藩者は帰藩・主のない者は幕府が扶助、(2)勅諚による施行、(3)違反者は厳罰、を決定しましたが、16日、鷹司関白は、浪士らの攘夷の気持ちを挫きかねないことを理由に勅諚を出すことを拒否したため、実行に移せないでいました(こちら)、。 春嶽は、昨今の混乱(朝廷が強て攘夷期限設定を迫り、幕府は速やかに実行することが不可能だと知りながらも反論できないこと、また浪士の暴行を幕府が処理することは容易であるが、朝廷が「暗に其所為を庇護」するため放置せねばならないことなど)の原因は、政令が朝廷と幕府の二途から出ているからだとみました。そして、この際、「幕府より断然大権を朝廷江返上」するか、「朝廷より更に大権を幕府に委任」するかのどちらか一方に定めなければ「最早天下の治安ハ望」めまいと考えました。 この日、春嶽は重臣とともに登城し、一橋慶喜始め「例の方々(容保・容堂?)」には自身が持論を述べ、大目付・目付には越前藩重臣に対応させたところ、一同、「大に同意」しました。そこで、次に慶喜・春嶽が中川宮(青蓮院宮)を訪問してこの意見を述べたことろ、宮も同意し、<明朝、一橋・越前・会津・土佐の4人が鷹司関白邸に参るように。拙者も近衛前関白とともに協議に加わろう。その上で伝奏・議奏・そのほか国事掛を呼び寄せるので、十分に議論すればよい。ただし、議論は随分厳しいものとなるだろう>(大意・ヒロ)と述べました。 <ヒロ> 春嶽は、前文久2年10月にも、自分が将軍に先発上京し、「日本全国のため」の開国を上奏をすると主張する慶喜に対し、政権返上覚悟で開国を上奏するよう説いていました(こちら)。しかし、慶喜はそこまでの覚悟は定められず(老中らのせいにしてますが)、春嶽の意見は御用部屋で評議されることはありませんでした(こちら)。 この日の春嶽の政令帰一論は、上洛前の意見の延長上にあると思います。大政委任が得られなければ、到底、公武合体派主導の衆議による公武一致の国是決定(→大開国)は無理であり、このままでは、成算がなく、道理にもあわない破約攘夷につきすすまなくてはならない。それはとてもできないから、その場合は、政権返上をする覚悟を定めなくてはならない・・・。春嶽は本気だったと思います。 今回、慶喜(や老中ら)は、政令帰一の必要性では一致しているものの、では、万一大政委任が得られなければ政権返上をする覚悟があったのか、といえば、やはり、今回も、そこまでは考えていなかったようです。この後、そのずれがじょじょに明らかになっていきます・・・。 ●文久年間の大政奉還論 慶応3年に大政奉還を建議することになる土佐藩の実力者山内容堂、大政奉還を決意した将軍慶喜が文久3年のこの時点で庶政委任か政権返上かという議論の当事者であったことは興味深いと思います。政治的混乱を収める手段としての大政奉還は、彼らにとって慶応3年に降ってわいた新しいアイデアではなく、なじみのあるものだったのです。 大政奉還は、上述のように、前年、文久2年に幕府が開国上奏か攘夷奉勅かで揺れているときに出た議論でした。10月8日、春嶽が慶喜に大政奉還覚悟で開国を上奏するよう説きました(こちら)が、同月20日、幕議が攘夷奉勅に一転したとき、大目付大久保一翁は、春嶽に対し、開国上奏して、朝廷が攘夷断行を命じたときは大政奉還・諸侯の列に下るべきだという大政奉還論を主張しています(こちら)。(慶応3年に坂本龍馬が大政奉還を最初に言い出したというのはよくある誤解です)。 参考>『続再夢紀事』一p380-382(2003.4.18、2004.4.7) 関連:■テーマ別文久2年:「国是決定:奉勅攘夷VS開国上奏」文久3年「攘夷期限」「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題」■開国開城:「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■浪士対策 【京】文久3年2月19日、朝廷は守護職松平容保に対して学習院警衛にあたるよう命じました。 <ヒロ> 学習院は御所内にある公家の学問所ですが、20日には学習院において草莽の建言を許可されることになります。学習院はいわば尊攘急進派のメッカなわけですが、そこの警衛をなぜ会津藩が命ぜられたのか・・・ 近衛忠煕前関白(公武合体派)がひそかに容保に告げたところによると、実は、この朝命には裏がありました。急進派公卿の中山忠光侍従らは、会津兵に学習院を警戒させれば、必ず諸浪士に強硬な対応に出るか、言語洞開を邪魔するような行為に出るに違いない考え、それを罪として守護職を罷免しようと待ち受けているというのです。近衛前関白は、十分注意するよう警告を発しています。 関連:■テーマ別「浪士対策」■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策 <参考>『七年史』一(2003.4.20) ■生麦事件償金 【江】文久3年2月19日、生麦事件(前年8月)に関し、英国代理公使ジョン・ニールは幕府に対して謝罪と10万ポンドの償金を要求し、20日以内(3月8日期限)に返答するよう求めました。さらに艦隊を薩摩に派遣して直接薩摩藩と交渉し、犯人の捕縛と斬首、及び償金2万5千ポンドの支払いを要求することを通告しました。回答が得られなければ適宜必要な措置をとる・・・と2月3日から順次横浜に入港した8隻の艦隊の威力を背景にしての要求でした。 将軍は上洛のため同月13日に江戸城を出発しており(こちら)、留守老中らは飛脚を飛ばして指示を請いました。将軍に随行していた水野忠精・板倉勝静両老中は、この件については将軍上洛後に後見職・総裁職と話し合うので、回答延期を交渉するよう命じます・・・。 <ヒロ> そういえば、浪士組出立の2月8日には、英国艦隊が続々と横浜に入港していたんですよね。彼らの上京が東海道を避けて中山道を通ってということになったのは、「尽忠報国」のために集った浪士と英国との間に悶着が起ることを避けたかったからかも?? 参考>『徳川慶喜公伝』2(2001.4.6) 関連:■テーマ別:「生麦事件償金問題」 ■開国開城:幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 |
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