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文久3年3月4日(1863.4.21)
【京】将軍徳川家茂、入京
【京】政令帰一:二条城で政令帰一の会議(慶喜、春嶽、宗城、容堂、老中ら)
【京】木像梟首事件:朝廷、犯人の赦免を命じる
【江】生麦償金:幕府、関八州の大名・旗本に開戦覚悟を命じる。

■将軍上洛
【京】文久3年3月4日、将軍家茂が入京しました。

家茂は、2月13日、江戸を出立し、陸路上洛の途についていました(こちら)。将軍の上洛は、三代将軍家光以来、約230年ぶりのことでした。

○おさらい
<将軍上洛の背景>
将軍の上洛は寛永年間以降行われていませんでした。大きな理由は多額な費用がかかることだったそうです。文久年間、幕府の財政は逼迫していましたが、にもかかわらず5月26日、幕府(久世広周政権)は上洛を決定し(こちら)、6月1日に布告しました(こちら ただし、日程はあいまいにしていました)。長州藩主毛利敬親の建白書(こちら)や政事総裁職松平春嶽の建言(こちら)を容れてのことですが、朝幕関係を改善できれば上洛費用(予算150万両=約360億円)を惜しむことはないと、決断したのです。

ところが、失脚した久世広周に変わって幕閣をリードした板倉勝静は将軍上洛に熱心ではありませんでした。大小目付・勝手方も成算のない上洛は中止し、その費用で海軍の振興を図るべきだとの意見でした。これに対し、公武一和の成就には将軍が上洛して失政を陳謝し、朝幕関係を改善することが肝要だと考える春嶽は、公武一和が成らなくては陸海軍が充実しても意味がない、また、費用節約のため将軍上洛は軽装にすればよい、と論じました。大目付岡部長常は軽装の将軍上洛には反対し、後見職・総裁職が名代として上洛をすればよいと、春嶽の意見には同意しませんでした。

しかし、岡部は、8月27日に横井小楠の幕政改革論(将軍上洛を含む)を聞いて感服し(こちら)、また、閏8月1日には板倉も横井の意見を聞いて、改革断行を決意しました(こちら)。(←もちろん、幕政改革が進まないことに憤慨した春嶽の登城ストもありましたが)。同月11日、横井の意見をきいた板倉は、翌文久3年2月の将軍上洛を内定しました。(→「開国開城14:将軍上洛へ-第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」に続く)

<薩摩藩の将軍上洛延期運動>
幕府は、将軍上洛の下準備として、京都の尊攘急進派勢力を抑えようとし、当初、後見職一橋慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考えましたが、総裁職松平春嶽から公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策の提案があり、この策で臨むことに決まりました。公武合体派連合策の中核と目された薩摩藩は、上京には同意したが、確固とした国是が定まらぬうちの将軍の早期上洛には反対で、将軍上洛延期運動を展開しました。文久3年1月、将軍上洛延期の朝命を得るため、薩摩藩士大久保一蔵(利通)と越前藩士中根雪江が上京しましたが、尊攘急進派に牛耳られた京都の情勢は厳しく、将軍上洛延期の朝命発令は叶いませんでした。(「開国開城16:京都武力制圧策から公武合体派連合(幕薩連合)策へ」

関連:■テーマ別文久2「将軍徳川家茂上洛問題」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議薩摩藩の将軍上洛延期運動」文久3「薩摩藩の将軍上洛延期運動2

■政令帰一(大政委任)問題
【京】文久3年3月4日、後見職一橋慶喜は二条城に政事総裁職松平春嶽・山内容堂・伊達宗城、及び老中水野忠精・板倉勝静(将軍とともに上京)、老中格小笠原長行を集めて、京都の事情と政令帰一(大政委任)の緊急性を説きました。

同夜、老中3名は関白鷹司輔熙に面会し
将軍は若年なので後見職の慶喜に名代として予め(大政委任を)奏上させて叡慮をうかがいたい・・・と提案し、承諾をえました。

<ヒロ>
将軍上洛という機会を利用し、将軍名代として庶政委任の親勅を得ようとしてのことでした。てっきり大政委任を得て積極開国(大開国)を推し進めるつもりかと思いきや・・・・→明3月5日の今日に続く

○おさらい:大成委任問題
将軍に先立って上京していた後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽春嶽は、長州藩を後ろ盾にする尊攘急進派の勢力を覆すことができず、それどころか、実行不可能な攘夷の期限を将軍滞京10日・帰府後20日以内と約束し(こちら)、さらには期限は4月中旬だと回答していました(こちら)。また、浪士の横行も、朝廷が「暗に其所為を庇護」するため、幕府が処置することは容易にもかかわらず、放置せねばならない状況でした。

慶喜と春嶽は、事態を打開するには大政委任(政令帰一)か政権返上しかないという点で一致し(こちら)、2月21日、関白鷹司輔熙に二者択一を迫りました。関白らは、「蔭武者」を後ろ盾にする急進派の「激論」を挙げて(大政委任を決断するのは)自信がないといい、御前会議開催を求めても自分たちだけでは判断できないと難色を示しましたが、将軍上洛時には大政委任の沙汰があるよう計らうと述べていました(こちら)

なお、春嶽は、関白の発言をまともにとらなかったようで、公武一和の周旋は不可能だと見切りをつけて、将軍辞職・政権返上説に傾き、前日の3月3日、将軍家茂を大津まで出迎えた際に、将軍辞職を上言していました(こちら)

関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題
参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2001.4.21)

■足利将軍木像梟首事件
【京】文久3年3月4日夜、朝廷は、政事総裁職松平春嶽に、伝奏を通して、足利将軍木像梟首事件の犯人赦免を命じました。

<先月捕縛した浪士らは正義の聞こえがある。そのままにしては人心が騒擾致すので、今日、早々に出獄させるようにと仰せ出された>

(日付は『続再夢紀事』より)

関連:■テーマ別「足利将軍木像梟首事件」■開国開城「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■「志士詩歌」足利木像梟首事件
参考:『続再夢紀事』一・『七年史』一(2003.4.27、2004.4.21)

■生麦事件償金問題
【江】文久3年3月4日、幕府は関八州(相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸)の大名・旗本に開戦の覚悟を命じました。

関連:■ 開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別「生麦事件償金問題
参考:『徳川慶喜公伝』(2004.4.21)

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