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篠原秦之進の年表(2)新選組・御陵衛士時代

年号
(西暦)
できごと
文久4/
元治1
(1864)
37 10月−伊東らとともに江戸での新選組隊士募集に応じて、加盟希望者として上洛(入隊者ではない)。
12月−私用で下坂し、翌年5月まで滞在。(「秦」)
元治2/
慶応1
(1865)
38 5月−京都に戻り、新選組屯所(西本願寺)に入る。(「秦」)

7月−大和に浪士捕縛に出張。大和国奈良に浪士が潜伏しているというので、伊東・篠原・富山弥兵衛・茨木司・久米部正親の5名が捕縛を命ぜられて出張した。その夜、篠原と久米部が、市中で身元不明の4〜5名と行きあたり、1間あまりの乱闘となった。相手は逃げたが、久米部は重傷を負った(「秦」)

夏−新編成で、諸士調役兼監察、及び柔術師範に任命される。(「壬」)

10月頃?−伊東・篠原、長州奇兵隊元総督赤根武人、及び久留米志士渕上郁太郎の赦免に尽力。(「壬」「秦」)
慶応2
(1866)
39 1月27日−伊東・篠原、近藤・尾形とともに、陸路広島へ伊東の事件簿
2月3日−伊東ら広島入り
2月11日−伊東・篠原、壱岐守と面談し、尊王攘夷を議論。また、諸藩周旋方とも会議。長州寛典を立論。
3月7日−伊東・篠原、諸藩士と面談。
3月18日−伊東・篠原、広島港出立
3月19日−伊東ら備後に停泊
3月22日−伊東ら四国多度津に停泊
3月24日−伊東ら、大坂港到着
3月27日−京都到着
9月26日‐(伊東・篠原、近藤・土方と分離について激論。:疑問あり)
9月27日‐(篠原、近藤・土方と激論。近藤ら了承。しかし異論がある(疑問あり)
9月28日‐斎藤一の武田観柳斎暗殺に同行?(疑問あり)
(12月−慶喜、第十五代将軍就任。孝明天皇死去。)
慶応3
(1867)
40 1月−伊東・新井、九州遊説に出発。(「九」)
3月10日−朝廷の武家伝秦より、伊東ら十数名、山陵奉行配下御陵衛士を拝命(「秦」)
    *篠原は御陵衛士拝命に奔走したという。
3月20日−新選組から分離。(「九」)
11月18日−油小路事件。(参照:伊東、新選組に暗殺される油小路事件*篠原は甲冑をつけて油小路に向かうことに反対したという。(「秦」)

11月19日未明−新選組の重囲を斬開き、今出川の桂宮家権太夫尾崎刑部宅に逃げ込む。四ツ頃、新選組隊士6〜7名が尾崎宅に押しかけ、篠原の引渡しを求めるが、尾崎の「いない」との返答に引き上げる。夕七ツ、篠原は今出川の薩摩藩邸に保護を求める。三樹・加納・富山と合流。 (「秦」)

同日、油小路に随従した小者武兵衛が篠原の妻萩野に急を報せる。萩野は月真院に向うが誰もいないので伊東妾宅に立ち寄るが、新選組隊士に尾行されており、密かに抜け出す。一方、萩野の留守宅には新選組隊士が押し入り、家財道具を没収して三日間見張る。隙をみて、下僕が篠原の息子を連出し、大坂に潜伏する。→「女達の油小路事件

同日、新井の妻小静、篠原の妻萩野、伊東の妾が薩摩藩遠武橘次屋敷に逃げ込む。その後、薩摩藩留守居役内田忠之助、高崎左京、大久保一蔵宅に潜伏する。(「秦」)

11月21日−伏見薩摩藩邸に移される。(『史』「秦」)

11月25日−妻たち、伏見薩摩屋敷へ駕籠で送られる。(「秦」)
12月中旬−薩摩藩中村半次郎から外出許可が下りる。(『史』)
12月17日−加納、京都から戻り、沖田が近藤妾宅にいるとの情報をもたらす。(『史』)
12月18日−伊東らの祥月命日。
・阿部・佐原・内海、早朝に伏見を発って沖田を襲撃するが、沖田は新選組本陣(伏見奉行所)に戻った後で失敗(『史』)。阿部・佐原・内海、京都寺町で近藤をみかける。伏見藩邸に戻り、篠原・加納・富山を誘って、近藤を待ち伏せて襲撃するが、怪我を負わせるだけにいたり、今出川の薩摩藩邸に逃げ込む。(『史』)

12月25日−夜、新井が合流。(「秦」)
12月末頃−薩摩藩吉井幸輔・大久保一蔵・伊地知正冶から呼び出され、江戸に明るいものはいないかと聞かれる。(そこで加納・清原が出ると、薩摩藩江戸屋敷焼き討ち後の情況探索を依頼される)。(『史』)

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「墓」=新井の墓碑、「秦」=「秦林親日記」、「岳」=「岳父鈴木三樹三郎」、
「壬」=「新撰組(壬生浪士)始末記」、『相』=相楽総三とその同志』


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