1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月4日(1864.1.12)
【京】孝明天皇、中川宮に浮説を気にせず扶助するようにとの宸翰
【京】三条大橋に中川宮・松平容保天誅の落書
【江】勝海舟、松平春嶽に書簡を遣わし、老中板倉勝静上京周旋の困難を告げる

■中川宮の浮説
【京】文久3年12月4日、孝明天皇は、中川宮に対し、自分は浮説を気しないので、疑心を起こさずに変わらず扶助するようにとの宸翰を付与しました。

禁門の政変で排除された尊攘激派は、政変は天皇の意向を無視した中川宮・会津・薩摩の陰謀であるとしていました。10月には、天皇が密かに三条実美に大政を委任したいという密旨を下したとの流言が行われ、天皇がこれを否定するということがありました(こちら)。前後して、中川宮が皇位簒奪の意志があるとか、会津等とともに呪詛を企んでいるなどの浮説が起こりました。中川宮は、このような浮説は事実ではないが、浮説が生じたことは恐れいるすると上奏しました(こちら)。この日の天皇の宸翰はその返答となります。

・・・(前略)・・・尹宮(=中川宮)事何か奸謀之有る儀の一件、実は此方に於いても何か耳に入り候事も候へ共、強いて申し出ず候。有体実は不頓着、即右様の義も種々申し触れ候は、即長州を根本として、右長州に附属の輩申し出、人気を迷し、終に予の腹をくつかえす手段と存じ候。是は即暴人共八月十八日の一條(=禁門の政変)を俗にひくりかへし、咎の輩、再出の段、右手廻し足廻し候策略に候間、左候へば、予の*策故、一統無頓着、強いて発言迄も之無く、打ち捨て候。

尤も又、左程迄巨細の義も承らず候事、北野の張り紙と申す事は耳に入り候へ共、未だ写しも手に入れず候間、何共分からず候へ共、何分尹宮、肥後守(=松平容保)等と手を組み、何か石清水に於いて、誰と申す僧をかたらひ、呪詛之有り候由、又尹宮予が位を取りうばひ候由の義、風説に承り候へ共、例の風説即戊午年も有之義、其時すら予に於いては一統不頓着訳。

別て当説去八月十八日の一條)は、全く、予、憂憤払い候は、会津周旋とは申しながら、頓と元は其宮(=中川宮)の御周旋事に候。十八日前に毎々往反の分、兎角宮へ何事も申さざる様、各承知候処、密々ながら、予より文通候て、粗御分かりの事、始めて存ぜられ候事も之有り候事に候。其も段々次第当節に至り候義、全く其の方の御尽力、予と手を組み、万々申し入れ候ては抜群の違、又、腹心ながら前関白へもかくし、尹宮へ申し入れ候義も毎々に候事に存じ候。

左候へば、前文次第姦人申し触らし候。ちっとも、其れに予なづむようなる訳之無き義は、賢明の方にて御分かち之有るべく候。疑い起り候も、事起り候て、絶えて左縺の基に候。

・・・(中略)・・・何分其の方においては、決して従来の朋友御疑いは不日もあるまじく存じ候へば打ち明け申し入れ候辺、宜しく聞き取り頼み入り候。実に箇様の事も姦策の処置か伺くみ(ママ)に事に逢うように成り候得ば、切者義入候也。猶又扶助頼み入り候事。・・・(後略)
出所:『七年史』二p66-69 (読み下しby管理人。段落、句読点は任意。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)

<ヒロ>
宸翰が引用されている『七年史』では12月3日に付与されたとなっていますが、『続再夢紀事』の日付をとりました。

関連:■テーマ別文久3「中川宮に関する浮説」(2005.1.27)

【京】文久3年12月4日、三条大橋詰に中川宮と京都守護職松平容保に天誅を予告する落書が張り出されました。

「尹宮松平肥後守と兄弟の契を結び、鷹司関白の正義を退け、近衛父子、二条右大臣、徳大寺内大臣の姦悪を挙用候に付、依て天誅行うべき者也」
出所:『七年史』二p70

■老中板倉勝静上京
文久3年12月4日、勝海舟は松平春嶽に書簡を認め、老中勝静の上京周旋依頼は尤もだが、困難であり、朝廷の沙汰を得ることを考慮してほしいと述べました。(「既に其の筋尽力仕り候得共、何分力足り申さず、薩藩へも申し談じ候義も之有り、是は京地より御沙汰も之有り候様仕り度、猶又御勘考願い奉り候」)

春嶽は、江戸滞在中の勝に対し、11月10日付の書簡で、老中板倉勝静の上京周旋を依頼していました(こちら)ので、その返書ということになるのでしょうか。

勝の書簡が春嶽のもとに届くのは12月18日のことになります。

関連■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年「将軍・後見職の再上洛」勝海舟(文久3)

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