1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ
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■中川宮の浮説 【京】文久3年12月4日、孝明天皇は、中川宮に対し、自分は浮説を気しないので、疑心を起こさずに変わらず扶助するようにとの宸翰を付与しました。 禁門の政変で排除された尊攘激派は、政変は天皇の意向を無視した中川宮・会津・薩摩の陰謀であるとしていました。10月には、天皇が密かに三条実美に大政を委任したいという密旨を下したとの流言が行われ、天皇がこれを否定するということがありました(こちら)。前後して、中川宮が皇位簒奪の意志があるとか、会津等とともに呪詛を企んでいるなどの浮説が起こりました。中川宮は、このような浮説は事実ではないが、浮説が生じたことは恐れいるすると上奏しました(こちら)。この日の天皇の宸翰はその返答となります。
<ヒロ> 宸翰が引用されている『七年史』では12月3日に付与されたとなっていますが、『続再夢紀事』の日付をとりました。 関連:■テーマ別文久3「中川宮に関する浮説」(2005.1.27) 【京】文久3年12月4日、三条大橋詰に中川宮と京都守護職松平容保に天誅を予告する落書が張り出されました。
■老中板倉勝静上京 文久3年12月4日、勝海舟は松平春嶽に書簡を認め、老中勝静の上京周旋依頼は尤もだが、困難であり、朝廷の沙汰を得ることを考慮してほしいと述べました。(「既に其の筋尽力仕り候得共、何分力足り申さず、薩藩へも申し談じ候義も之有り、是は京地より御沙汰も之有り候様仕り度、猶又御勘考願い奉り候」) 春嶽は、江戸滞在中の勝に対し、11月10日付の書簡で、老中板倉勝静の上京周旋を依頼していました(こちら)ので、その返書ということになるのでしょうか。 勝の書簡が春嶽のもとに届くのは12月18日のことになります。 関連■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年「将軍・後見職の再上洛」「勝海舟(文久3)」 |