1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月5日(1864年1月13日)
【京】後見職邸会議:
薩摩藩の提言により、賢明諸侯を議奏に加えるよう周旋することを決定
在京諸侯連署の中川宮擁護の上書提出を決定

■参豫会議へ
【京】文久3年12月5日、後見職一橋慶喜邸で行われた会議で、(1) 薩摩藩の提言により、賢明諸侯を議奏に加えるよう周旋すること、(2)在京諸侯連署の中川宮擁護の上書を提出することが決まりました慶喜邸には松平春嶽(前越前藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)が集まっていました。


この日、薩摩藩は<公卿方の優柔不断はいうまでもなく、すでに決断したことも容易に実施されない。かといって武家でどれほど勇決してもその詮は無く、このままではとうてい大事は行われがたい。故に賢明諸侯を朝廷に召しだし、議奏に加えるべきである>」(口語訳ヒロ)という意見を提出しました。慶喜らは薩摩藩の提言に同意し、同藩国父島津久光その周旋を任せることを決めました。諸侯が朝廷議奏に加えられた際は、一日は朝廷に、一日は二条城に詰めることと定め、将軍上洛までに大方のことを粗決する計画だったそうです。なお、二条城での参集については、会津藩が周旋することが申し合わされました。

<ヒロ>
有力諸侯入京前の10月15日、久光は中川宮に対して、朝廷の旧弊を指摘し、(1)永世不抜の基本を立てるべき、(2)国是決定には列藩上京による「天下の公議」を採用すべきなどを意見した建白書を差し出しています(こちら)。その後も状況は変わらなかったようです。また、11月15日には久光に密勅が下っていますが(こちら)、そこには久光の指摘した朝廷改革や列藩の公議による国是決定に関するものは含まれていませんでした。そんなことが、この日の提案につながったのではないでしょうか。

参考:『続再夢紀事』二p272, 『伊達宗城在京日記』p262(2002.1.13/2005.1.28/2010/4/3)

■中川宮の浮説
会津藩・薩摩藩と組んで禁門の政変を起こした中川宮には、政変後、皇位簒奪や天皇呪詛・毒殺を計画しているとの浮説が起こっていました。12月3日には孝明天皇が中川宮に浮説の真偽を直接問いただしていました。天皇は中川宮の説明に納得し、ますます忠勤に励むよう諭したそうで、翌4日には、中川宮への信頼の旨を認めた宸翰を下していました。しかし、朝廷内には政変で排除された尊攘激派に心を寄せる者が残っており、浮説に動じて中川宮を疑っていたそうです。そこで、在京諸侯が連署して中川宮雪冤の上書を提出することに決めたのです。

その草稿は薩摩藩小松帯刀、越前藩中根雪江らが相談して作成し、それを慶喜らが添削することになりました。また、この日欠席の黒田慶賛(筑前福岡藩世子)、長岡澄之助・良之助(肥後藩公子)には、次の日に中根雪江らを遣して相談させることになりました。

参考:『続再夢紀事』二p272(2002.1.13/2005.1.28)

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