1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

前へ 次へ

文久3年12月19日(1864年1月27日)
【伏見】嘆願(23)長州家老、四度目の入京嘆願/
【京】慶喜・容保、二条右大臣の諮問に対し、井原に使者派遣すべきと述べる
【京】慶喜・春嶽・宗城ら、井原入京と久光叙任を議す

■長州家老井原主計の入京嘆願(23)
【伏見】文久3年12月19日、長州家老井原主計は、四度目の入京嘆願を行いました

井原は、12月11日に朝使である勧修寺家雑掌に奉勅始末・取調書を提出しましたが、その後も、入京を嘆願していました(こちら)。同月16日、朝廷は、慶喜らの意見(こちら)を容れて井原の入京請願を退け、帰国を命じました(こちら)。しかし、井原は「宰相父子申し含め候趣」もあり、「父子積年の微忠」は書面にては尽くしがたく、「万一行き違い」があってはいけないので、是非とも入京の上、口頭で言上させてほしいと重ねて嘆願しました。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2002/2/26)

【京】文久3年12月19日、一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城は、井原が口頭で言上する廉があるならば、伝奏の雑掌に役人を同行させて聴取させればよいだろうと評決しました。

この日、後見職邸に春嶽・宗城が集まりました。三者が談話中に参上した薩摩藩士高崎猪太郎(五六)は、
先日、因幡藩某が井原主計に面会しましたが、井原は、持参の書面はこの程その筋へ差し出したが入京を許されず、(藩主父子に言い含められた)口頭で言上する廉もいかんともし難く、非常に遺憾である。この上は屠腹するほかに致し方あるまい、と申していたそうです。因幡藩某は、井原をこのまま帰国させては長防の士民が大いに怒り、いかなる変事を生ずべきかも計り難いので、しばらく大坂に滞留を許されてはどうかと考える、と申しておりました。
と述べました。

慶喜らは相談の結果、入京は許可しがたいが、口頭で言上する廉があるならば、伝奏の雑掌に役人を同行させて聴取させればよいだろう、と評決しました。

参考:『続再夢紀事』二p297-299(2005.2.2

【京】同日?、後見職一橋慶喜と守護職松平容保は、右大臣二条斉敬の諮問に対して、伏見に使者を派遣して井原の口上を聴取させるべきだと答えました

春嶽 主計の提出した文書で長州藩主父子の意中は明白であるのに、強情に入京を願うのは朝命を憚らない不埒な行為である。しかしながら、文書以外に藩主父子の意中を申し述べたいということには一理があるので、使者を送って申すところを聞かせるべきである。是非とも入京の上でというなら、帰国させて後命を待たせるべきである
慶喜 使者は執奏の雑掌か武家伝奏の雑掌にすべきである。それ以上の位の者をさしむけては長州藩がつけあがるであろう。

*慶喜の意見は、上の後見職邸会議での評決を受けたものだと思われるます。二条右大臣の諮問はもしかしたら20日かもしれません。、

参考:『徳川慶喜公伝』2(2002/2/26)

関連:■テーマ別文久3年「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■守護職日誌文久3 ■長州藩日誌文久3  ■徳川慶喜日誌文久3
■久光の叙任
【京】文久3年12月19日、一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城は、薩摩藩国父島津久光の叙任について意見を交換しました。

春嶽 島津三郎殿の官位はどのように仰せ出されてしかるべきだろうか。
慶喜 三郎殿に島津家を継がせてはどうか。
宗城 島津家を継ぐことになっては、薩の国情が却って穏やかではないだろう。
慶喜 三郎殿が家督を継がれれば従四位中将になるが、そうでなければ従四位で、少将か侍従になるだろう。また、三郎殿に叙任となれば、宇和島殿・土州殿の官位も進めねばバランスがとれないのではないか。

参考:『続再夢紀事』二p297(2005.2.2)

前へ 次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ