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文久3年9月20日(1863年11月1日)
【京】会津藩、越前藩に春嶽が総裁職無断辞職・帰国を詫びれば
逼塞解除になるとの内示を伝える
【長】高杉、三田尻の七卿に世子定広上京決定を告げる。
七卿、再び奇兵隊拝借を要請p
【京】壬生浪士芹沢・平山の葬儀行われる

■春嶽再上京
【京】文久3年9月20日、会津藩公用人小野権之丞は、越前藩に対し、春嶽が総裁職無断辞職・帰国を朝廷に詫びれば逼塞解除になるだろうとの松平容保の内示を伝えました

この日越前藩士を呼び出した小野権之丞は、<春嶽殿の逼塞は最前幕府より解免されたので既に御自由だと心得ていましたが、朝廷では未だ解免されていないとの事で、非常に曖昧な次第なので肥後守も甚だ心配し、過日来、その筋に周旋に及んでおりました。その際、伝奏衆まで、当春総裁職辞表を幕府に届け捨てたまま帰国したのは不束であるとの主意の侘書を提出すれば、解免があるだろうとの事でした。ついてはこの事を速やかに御国表へお知らせありますように>と言ったそうです。越前藩では早速使者を福井に送ることにしました。

<背景>
越前藩では8.18の政変直後に、京都の情勢が穏やかではないので藩主父子が速やかに上京すべきかどうかを問い合わせましたが、「越前守上京之儀は尤もに候得とも、父逼塞未免内上京候而は條理等不相立候に付可見合事」という指示が下りました。この「逼塞」は春嶽が3月に政事総裁職の辞任が聞き入れられぬまま福井に無断帰国(こちら)して、受けた処分を指します。実は5月17日に幕府から逼塞を解除されていたのですが、朝廷はそれを認めてはいませんでした(こちら)。それだけでなく、朝廷は、9月1日にも、京都守護のための越前藩兵の上京の申し出を無用だと達していました(こちら)。朝廷が逼塞を解除しない限り、春嶽(越前藩)は身動きの取れない状況でした。

詳細は・・・いずれ・・・。

関連: ■テーマ別文久3年:「春嶽の総裁職辞任」「越・薩提携の政変計画」「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.11.29)

■長州進発
【長】文久3年9月20日、三田尻に派遣された高杉晋作は滞留中の七卿に世子毛利定広の上京決議を報せました。七卿は喜び、藩主敬親に奇兵隊拝借を要請する書状をしたためました

関連:■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史』p547(2004.12.16)

【京】文久3年9月20日、双天。暗殺された芹沢・平山の葬儀が行われました。

<ヒロ>
これは子母沢寛の作品『新選組遺聞』で、八木老人が葬儀は暗殺の翌々日の9月20日としているからで、暗殺16日説をとるなら、葬儀は18日となります。

<参考>『新選組遺聞』、『幕末維新京都町人日記』(2000.11.1)
関連:「清河八郎と浪士組/新選組」@衛士館

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