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文久3年3月21日(1863年5月8日)
将軍東帰:一橋慶喜&老中、将軍東帰の再願。
春嶽辞任:総裁職辞任届け捨てのまま離京

■将軍東帰
【京】文久3年3月21日、将軍後見職一橋慶喜と老中板倉勝静(周防守)・水野忠精(和泉守)は、関白鷹司輔熙に面会し、東帰の再願をしました。

慶喜は<江戸では必ず外国との戦争になるだろうから将軍が直接指揮をしなくてはならない>と論じたそうです。関白はもっともだと東帰を了承したものの、独断では回答できず、伝奏・議奏・国事掛にも諮った後で確答するから、とりあえず、東帰の準備を進めるように述べたそうです。そこで、幕府は明後23日出立と決め、東帰の準備を始めました。

ところが、夜中になって、関白は、急に山内容堂(前土佐藩主)・松平陸奥守(仙台藩主伊達慶邦)・上杉弾正大弼(米沢藩主上杉斉憲)・細川越中守(肥後藩主細川慶訓)・松平紀伊守(芸州藩世子浅野茂勲)・備前守(備前藩主池田茂政)の6名を呼び出し、<将軍が押して東帰するなら違勅となるので心得るように>と述べました・・・。(関白は、急進派公卿に動かされたのでしょう・・・)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「将軍東帰問題」「生麦事件賠償問題

参考:『伊達宗城在京日記』・『徳川慶喜公伝』2

■春嶽辞任
【京】文久3年3月21日払暁、政事総裁職の松平春嶽が辞任が容れられないまま離京しました

春嶽は3月9日(こちら)、さらに15日(こちら)に辞表を提出して以来、その裁可を求めていましたが、なかなか許されませんでした。それで、18日、解任を待たずに直ちに帰国しようと決意し、その旨を慶喜に申し入れたところ、21日には解任の沙汰が下りるようにするのでそれまで待つよう要請されたので、一時帰国を見合わせました(こちら)

ところが、依然、沙汰が下りないので、20日、重臣を老中板倉勝静に遣わして、明21日の出立を申し立てたところ、とにかく解任の沙汰があるまでは出発を見合わせるべきだと諭されました。越前藩は、評議の結果、沙汰が出ないのは幕議の「例の優柔不断」からで、「過激に渉る」のは好ましくないが、かといって「際限なく引留められては迷惑」なので、沙汰の有無に関わらず、21日払暁に出立することに決めていました(こちら)

***

春嶽が提案した公武合体派連合策は、期待されて上京した薩摩藩国父島津久光の18日の退京(こちら)によって、完全に挫折していました。25日、幕府は春嶽の総裁職を免じ、逼塞に処しました。5月には逼塞が許されましたが、春嶽が再び京都政局に登場するのは、禁門の政変(8.18の政変)後の10月のことになります・・・。(その前に、横井小楠の提言を受けて、朝廷と幕府に建議するため挙藩上京をはかりますが。未遂に終っていますが、もちろん!、フォローしていきたいと思います^^)。

関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」「春嶽の総裁職辞任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年
参考>『続再夢紀事』一p433(2001.5.8、2004.5.10)

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