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文久3年10月6日(1863.11.16)
【京】尾老公、攘夷別勅使東下中止の上書
【京】朝廷、諸藩に対し、公卿入説の藩士・浪士取締の朝命
【坂】紀州藩主徳川茂承大坂入城

■攘夷別勅使
【京】文久3年10月6日、京都守護職松平容保は、前尾張藩主徳川慶勝(容保の異母兄)らと謀って、攘夷督促の別勅使東下猶予するよう奏請しました

<東下を猶予し、過激の輩が疎暴の行為をしないよう列藩に命じ、攘夷の策略はすべて幕府に委任されるように>(慶勝の上書)

参考:『七年史』ニ(2001.11.16)

■浪士対策
【京】文久3年10月6日、朝廷は諸藩に対し、公卿に入説する藩士・浪士を厳重に取り調べるよう命令しました。

沙汰書においては、文久3年「春」以来、公卿が叡慮を曲げることになったのも、藩士・浪士が公卿のところに立ち入って「悪しき」入説をしたからで、それゆえ彼らの取締が必要だとされています。

参考:『七年史』ニ(2001.11.16)

■春嶽再上京
【京】文久3年10月6日、朝廷は前越前藩主松平春嶽に赦免状を下しました

この日、伝奏野宮定功は、召喚に応じて参邸した酒井外記に以下の達書を渡しました。

「春来、不束の義之有りに付、今般御詫状差出し、叡聞に達し候處、聞こし食され、勅免仰せ出され候」

<ヒロ>
不束の義とは3月の春嶽の総裁職無断辞職・帰国を指します。春嶽はこれによって逼塞処分を受けましたが、5月に幕府はこれを解除していました。しかし、朝廷は春嶽の逼塞が解除されたとは認識しておらず、8月の政変後も春嶽は上京することができませんでした(こちら)。この状況を案じた松平容保は、伝奏から御詫書を提出すれば許されるだろうとの内示を得て、越前藩に報知しました(こちら)。春嶽は容保の助言を容れて、10月3日、詫書を提出していました(こちら)

関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.2)

【坂】文久3年10月6日、紀伊藩主徳川茂承が、朝命により、大坂鎮撫のため、大坂城に入城しました

参考:『徳川慶喜公伝』2(2001.11.16)

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