「今日」トップ 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■将軍家茂再上京 【京】文久3年10月10日、朝廷は横浜鎖港談判の詳細をきくことを理由に、後見職一橋慶喜に続いて将軍家茂の上洛を命じる勅を下しました。(日付は『徳川慶喜公伝』による。『七年史』・『京都守護職始末』によれば11日)。 10月7日には後見職一橋慶喜に横浜鎖港交渉について聞くためとして上京が命じられたばかりでした(こちら)。勅書は京都守護職松平容保に伝えられ、容保は将軍上洛催促のため、家臣小室当節を東下させました。慶喜公伝では、上洛命令は公武合体派大名が続々と入京しようとするなか、後見職と将軍を召し出して公武合体の実をあげようとする天皇の意思だと解釈しています。(2000.11.20) 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」「将軍・後見職の再上洛」 ■徳川慶喜日誌文久3 ■攘夷強硬派大名の帰国 【京】文久3年10月10日、前尾張藩主徳川慶勝(容保の異母兄)が帰国しました。 慶勝は政変後、勅により8月30日に上洛し、幕府への攘夷委任・攘夷監察使の東下猶予の奏請などを行っていました。しかし、『徳川慶喜公伝』によれば、慶勝の意見はほぼ因備(すでに帰国)と同じで鎖港攘夷(破約攘夷)であり、藩治監督のためと称してこの日、帰国しました。(横浜鎖港談判が行き詰まり、幕府の攘夷実行が困難だということが日に日に明らかになってきたからなのでしょうか・・・)。 参考:『徳川慶喜公伝』2(2000.11.20) ■長州藩進発 【長】文久3年10月10日、長州藩庁は、藩士に世子上京の際の随従を予め命じました。 命を奉ずる者は軍装をすること、病気・事故を装う者は直ちに隠居を命じ、嫡子なき者は養子を命ずることが達されました。 特に、来島又兵衛・久坂玄瑞には世子随従が命じられました。世子護衛のために遊撃隊を指揮させるためでした。 <ヒロ> 進発日は決まっていませんでしたが、この時期に命令が出されたのには、藩士に決意を固めさせる意図があったそうです。 ■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史 四上』p555(2004.12.17) 同日、近藤は、祇園一力茶屋における会津藩主松平容保主催の会合に招かれ、その席上、国事に関する意見を述べました。 文久3年10月20日付近藤勇書簡によれば・・・
<ヒロ> 近藤の意見は公武合体派の多数意見と同じで特に目新しい意見ではありません。ちなみにアイスブレイクとして近藤に意見を述べさせた会津藩家老横山主税は、会津藩公用方に諸生の広沢安任や秋月悌次郎を登用させたという、上下関係の厳しい会津藩では珍しい?進歩派でした。 近藤によれば、自分の意見をもとに、議論が始まり、その結果、将軍上洛の朝命が決まったような書きぶりですが・・・会津側の資料にはこの一件がみあたらず、なんともいえません。 <参考>『徳川慶喜公伝』、『七年史』、『京都守護職始末』、『新選組日誌』引用の近藤書簡、『幕末維新京都町人日記』(2000.11.20) |
幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
|