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■孝明天皇と会津藩 【京】文久3年10月9日夜、二条斉敬右大臣は会津藩主松平容保を館に招き、政変時の容保の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しました。 <宸翰> 堂上以下、暴論をつらねて、不正の処置、増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしのところ、すみやかに諒承し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱、これをつかわすものなり。 文久3年10月9日 <御製> たやすからざる世に武士の忠誠の心をよろこひてよめる 和らくも たけき心も 相生の まつの落葉の あらす栄へむ 武士と 心あはして いはほをも つらぬきてまし 世々のおもひて 出典:『七年史』所収の宸翰・和歌(読み下しはヒロ) <ヒロ> 『京都守護職始末』によれば、天皇の勅旨も伝えられたそうです。その大意は、天皇は政変時の容保の指揮を賞揚したく思うが、容保だけを賞揚したのでは物議を生じ、容保も心安らかではないだろうと考えている。ゆえにひそかに宸翰と御製を下す次第である。内密なので表立って答礼しないように・・・とのことだったそうです。 薩摩藩にも 会津本には必ず出てくる話ですが、実はこの約1ヶ月後、孝明天皇は薩摩藩国父島津久光にも、深く依頼する気持ちを伝える内密の宸翰(21か条から成る密勅)を与えています。 関連:■「言の葉」「孝明天皇−旧会津藩主松平容保が終生肌身離さなかった御製」■守護職日誌文久3 参考:『七年史』ニ、2001.11.19 ■春嶽再上京 【越】文久3年10月9日、前越前藩主松平春嶽は、上京の沙汰を受けて、来る13日に出発上京することを決定しました。 <ヒロ> 同月7日、上京の沙汰が下り(こちら)、翌8日、側用人島田近江は福井に向けて京都を出立しました。島田は9日に福井に到着していますので、その日のうちに春嶽は上京を決定したことになります。待ち詫びた沙汰だったということでしょう^^。京坂でも薩摩藩国父島津久光・守護職松平容保・軍艦奉行並勝海舟らが春嶽の上京を首を長くして待っていました。(これから、しばらく越前藩・薩摩藩が活躍します^^。でも、横井小楠が肥後に帰国してしまった(こちら)後なのが、ひじょーに残念です〜) 関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■越前藩日誌文久3 (2004.12.4) |