「今日」トップ 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

前へ 次へ

文久3年10月11日(1863.11.21):
【京】備前藩主池田茂政(鎖港攘夷派)帰国
【越】春嶽、久光・容保に書簡【
【江】川越藩主松平直克政事総裁職に

■鎖港攘夷派諸侯の帰国
【京】文久3年10月11日、備前岡山藩主池田茂政が帰国しました。

■春嶽再上京→参与会議へ
【越】文久3年10月11日、前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽は島津久光に返書を認めました

「(前略)先般賤臣共貴国へ差し出し候に付き、委縷御至念の御紙上、却(かえ)て汗面の仕合に御座候。其の節は何寄りの御品々両人へ御恵贈辱致深謝候。越前守よりも御礼宜しく申し述べ候。扨(さて)は貴慮の趣、賤臣共より帰舶の上申し達し、都(すべ)て御同論の義、大慶の至りに御座候。扨又(さてまた)小生今般の勅免相蒙り(=朝廷から総裁職無断辞職・帰国を許されたこと)天恩深厚冥加至極、有難き仕合存じ奉り候。殊に登京の儀も仰せ出され候に付き、畏れ奉り、早々旅装相整え、明後13日発途、来る18日著京の日積りに御座候間、此段御承知下され、何事も不日拝眉の上に相譲り委縷之能わざる御返答候間、御諒察所希い候。且つ又一橋殿、容堂、伊達豫州も召命下り候趣、大慶の至り(後略)」
管理人注:この年の7月、越前藩では挙藩上京して朝廷に改革を迫るという藩論(こちら)を確定し、肥後・薩摩に協力を求めるために家老岡部豊後らを九州に派遣した。一種の政変計画である。彼らが熊本を経て鹿児島に到着したのは8月上旬で久光が同意の返書を認めたのは8月14日だった。しかし、このとき、既に越前藩では藩論が一転して挙藩上京派は更迭されており(こちら)、政治顧問の横井小楠も福井を去っていた(こちら)。また、肝心の京都では、前日の13日に攘夷親征の沙汰が発表され、当初、越前藩との連携を考えていた在京薩摩藩士(こちら)は、まさに会津藩・中川宮と連合して政変を起そそうとしてした(こちら)。久光の返書を携えた岡部が福井に帰りついたのは禁門の政変から11日経過した29日だった。【関連:「越前藩の挙藩上京(越・薩提携による政変)計画」】

関連:■テーマ別文久3年「島津久光召命」:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■越前藩日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3 
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.4)

【江】文久3年10月11日、川越藩主松平直克が政事総裁職に就任しました。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.12.4)

前へ 次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ