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文久3年10月12日(1863年11月22日)

【生野】生野の乱勃発・代官所を無血占拠し、農兵募集。
【京】諸藩に対し、攘夷は幕府の指揮を受け、
軽挙暴発を戒めるようにとの勅命

■生野の乱
【生野】文久3年10月12日、尊攘急進派の平野国臣らが禁門の政変で都落ちして長州に滞留中の七卿のうち沢宣嘉を擁して、生野で挙兵しました。

大和挙兵中止説得に失敗した平野は、五条から引き返して京都に戻っていました。しかし、8.18の政変が勃発し、浪人取締が厳しくなったため、大和挙兵応援のため、京都を脱出して但馬に向いました。但馬には平野らの運動によって朝廷から農兵召募の許可が下りていたからです。

9月19日、農兵組織化の中心となってきた有志ら三十余名は、天誅組の大和挙兵に呼応する挙兵を決め、翌20日、平野らは都落ちした七卿を首領に戴くため、長州三田尻に向いました。平野は七卿に面会し、天誅組支援の挙兵を説きました。七卿は挙兵には概ね賛成でしたが、庇護者の長州藩が自重策をとっていたため、表立って動けない状況でした。このため、七卿の一人、沢宣嘉が密かに長州を脱出し、挙兵に加わることになったそうです。10月2日、平野・北垣は、沢宣嘉と彼に従う河上弥市・戸原卯橘ら奇兵隊隊士を含む37名と共に三田尻を脱しました。途中、天誅組壊滅の報に接し、一行は平野らの挙兵中止(潜伏・再挙)派と河上弥市・戸原卯橘らの挙兵派とに別れて議論となったが、挙兵論が通り、11日に生野に到着しました。生野では、再び挙兵の是否について議論になった。平野・本多らはここでも挙兵中止を主張したが、結局、挙兵に決したということです。

12日未明、彼らは代官所を無血占拠し、沢の諭告文を発表して農兵を募りました。

「先年開港以来、御国体を汚し奉り、小民ども困窮いたし候を、御憂い遊ばされ、度々関東へ攘夷の勅諚下され候えども、終に受け奉らず、朝廷を蔑如し奉り、度々毒薬を献じ候処、皇祖天神の保護に依り、玉体恙なく在らせられ候処、去る八月十七日、奸賊松平肥後守、偽謀を似て、禁門に乱入し、関白を幽閉し、公卿正義の御方々参内を止め、御親兵を解き放ち、言路を隔絶し、恐れ多くも今上皇帝、逆賊の囲中にあらせられ、実に千秋一時の一大厄を、恣に処置いたし候始末、倶に天を戴かざるの仇に候。嗚呼卒土の浜誰人か涕泣せざらんや、男子胆を張り、身を擲ち候は此時に候、但馬国は、人民忠孝之志厚く、南北の時節にも賊足利に与せず、皇威を揚げ、国体を張り候条聞召し上られ、兼ねて頼もしく奇特に思しめし候。早々馳せ集まり、大義を承り、叡慮を奉し、奸賊を平らげ宸襟を安んじ奉るべく候事。 沢主水正亥十月但馬国旧家有志人々へ」

農兵は続々と集まり、その数は即日2,000人を越えたといいます。

関連:■開国開城 「大和の乱・生野の乱

【京文久3年10月12日、<関東において鎖港談判が始まったので、攘夷はすべて幕府の指揮を受けるように。軽挙暴発の徒がないよう諸藩士の末々まで示し聞かせるように>との勅命が下りました

<ヒロ>
ここでは有栖川宮日記・守護職小史の10月12日を採用(七年史・守護職始末は9月27日説)。『七年史』・『守護職始末』では、26日、容保が幕府に無二念打ち払いの取り消しの周旋を依頼されたこと(こちら)、また27日、慶喜・老中の鎖港談判開始の上奏書を奏上したので(こちら)を受けてすぐにこの勅命が出たような書きぶりになっています。

関連:■テーマ別 「横浜鎖港交渉
参考:『七年史』ニ、『京都守護職始末』2001.11.22

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