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文久3年10月13日(1863年11月23日)
【生野】沢、多田弥太郎・入江八千兵衛らとともに本陣を脱出
【越】松平春嶽、福井を出発上京

■生野の乱
【生野】文久3年10月13日、沢宣嘉は元出石藩士の多田弥太郎・入江八千兵衛らとともに本陣を脱出しました。

前日の代官所占拠(こちら)の報を受けた出石・姫路二藩は直ちに出兵準備を行い、13日には出石藩兵900余人が生野に進みました(14日には姫路藩兵1,000余人が生野に)。

諸藩の兵に備えて、一党は生野に立てこもらず、街道の南北を防御することにしました。平野らは播磨口(南)に、奇兵隊出身の河上弥一は他の奇兵隊隊士・農兵一隊を率いて天然の要害である妙見山(北)に陣を張りまた。ここで、生野の本陣では挙兵中止(解散)論が起こりました。諸藩の兵が揃わぬうちに脱出すべきだというのです。本陣からは河上に使者を送りましたが、河上は動かず、解散説は立ち消えとなったそうです。しかし、13日夜、首領の沢が、元出石藩士の多田弥太郎・入江八千兵衛らとともに本陣を脱出しました。多田らに情勢の不利を説かれたからだともいいます。沢は生野本陣の机上に、「頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にてありぬる」という一首を残していたそうです。

沢脱出の報に接した河上らは、妙見山に留まり、諸藩の兵と一戦して討死する覚悟を決めました・・・・・・。

関連:■開国開城 「大和の乱・生野の乱

■春嶽再上
【越】文久3年10月13日、松平春嶽は、上京するために福井を出発しました

春嶽は3月の無断辞職・帰国によって逼塞処分を受けましたが(こちら)、5月に幕府はこれを解除していました。しかし、朝廷は春嶽の逼塞が解除されたとは認識しておらず、8月の政変後も春嶽は上京することができませんでした(こちら)。この状況を案じた守護職松平容保は、伝奏から春嶽が御詫書を提出すれば許されるだろうとの内示を得て、これを越前藩に報知しました(こちら)。春嶽は容保の助言を容れて、10月3日、詫書を提出させました(こちら)。同月6日に赦免状が下り(こちら)、同7日に、上京の沙汰が下りていました(こちら)。京都から福井に到着した側用人島田近江から知らせをうけた春嶽は、即日、13日の出発上京を決定していました。

関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 (2004.12.6)

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