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■参豫会議へ 【京】文久3年10月15日、薩摩藩国父島津久光は、中川宮に、(1)天皇・朝廷が旧弊を改めて、天下の形勢・人情・事変を洞察し、「永世不抜」の基本を立てるよう遠大な見識をもつこと、その上で(2)大策(=国是)決定には列藩上京による「天下の公議」を採用することを建白しました。
<ヒロ> 久光は召命により、10月3日に上京していました(こちら)。同8日の前越前藩主松平春嶽宛書簡では、久光は「未だ一句も献言仕らず、偏(ひとえ)に尊兄等の御上京待ち奉り候間、右意味深く御汲み受け、早々御発途成られ候様」と、有力諸侯との合流までは建言をしないと取れることを書いていたのですが(こちら)、我慢ならなかったのでしょうか^^;。 この建白書は、裏を返せば天皇を始めとする朝廷の「旧弊」への批判になっています。「旧弊」は、久光によれば、天下の形勢・人情・事変への洞察がなく、遠大の見識に欠け、わずかなことで動揺するといったことを指し、それゆえ「永世不抜の御基本」が立たないと分析しています。これらを改めない限り、いくら「良法」「奇策」をもちいても「皇国挽回」は無理だと言い切っています。まず、天皇・朝廷が「旧弊」を改め、その上で、諸侯の公議によって国是を決めるべきだというのです。久光を始めとする諸侯さえ上京すれば物事がおさまると安易に期待してもらってはこまる・・・という感じですよね。これは、久光の同志、松平春嶽らと共通した認識だといってよいと思います。特に、久光ら賢明諸侯の考える「国是」とは開国で、政変後も破約攘夷を主張し続ける天皇(朝廷)とは対立するものです。天皇や朝廷に開国という公議を受け入れてもらうには、彼らに天下の形勢・人情・事変への洞察や遠大の見識をもつよう改めてもらわねば・・・というわけだと思います。 参考:『玉里島津家史料』ニp530-53(2004.12.29、2010/4/3) ■浪士組/新選組の政治的側面 【京】文久3年10月15日。新選組は録位の辞退の上書を会津藩公用方に提出しました(宛先は藩主,松平容保)。
<ヒロ> 新徴組への対抗意識がのぞく上書です。また「新撰組 惣代」というところにも注目したいです。このころの近藤勇は、まだ独裁的な君主ではなく、隊士の総意を代表する存在だと自らを規定していたようです。この上書は芹沢の死から約1ヶ月後のものですが、隊内には近藤に服さない勢力もまだまだいて、分離の危険があった時期のようです。 ところで、慶応3年、新選組は総員幕臣に取り立てられます。このときに近藤が辞退しようとした動きは伝えられていません。むしろ、自慢に思っていたようです。近藤の「新選組は草莽の志士集団である」という意識はどのへんから変化していったのか・・・。幕臣取り立てに反発して離隊を願い出、逆に謀殺された(切腹説もあり)茨木・佐野ら尊王派の上書と、上記の上書は内容が似通っています。茨木らの言い分は「尊皇攘夷のため尽忠報国の志をとげたくて脱藩し、新選組に加盟したのに、寸効もたてておらず、このまま格式を受けては恐縮である。初志を貫徹できないことも嘆かわしいし、本藩にも面目がたたず、ニ君に仕えることになってしまうので離局させてほしい」でした。 この文久3年時の近藤、そして新選組は輝いているようにわたしには思えます。近藤が、この頃の、自分たちは尊王攘夷を主眼とする尽忠報国の志士であり、録位をもらうことが堕落につながるという気構え、そして自分は単に隊士の総代表なのだという意識をもちつづけることができたなら・・・新選組は現在知られているものとは違ったものになっていたかもしれないと、ふと思いました。 参考:『新選組日誌』・『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)収録の近藤書簡(2000.11.25) |
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