「今日」トップ 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

前へ  次へ

文久3年10月15日(1863.11.25)
【京】島津久光、(1)永世不抜の基本を立てるべき、
(2)国是決定には列藩上京による「天下の公議」を採用すべきとの意見書を中川宮に提出
【京】新選組、録位辞退の上書を会津藩公用方に提出

■参豫会議へ
【京】文久3年10月15日、薩摩藩国父島津久光は、中川宮に、(1)天皇・朝廷が旧弊を改めて、天下の形勢・人情・事変を洞察し、「永世不抜」の基本を立てるよう遠大な見識をもつこと、その上で(2)大策(=国是)決定には列藩上京による「天下の公議」を採用することを建白しました。

当今容易ならざる御時節、私式上京仕り候様、再三之勅命承知奉り、恐懼至極に存じ奉り候。上京之上、猶又御当地の形勢・四方之の情態熟察仕り候処、誠に以て重大の御場合と存じ奉り候に付、聊か愚存の趣言上奉り候。
抑皇国の内外御危急之御時節に当り、(天皇が)万民之困苦を忍び玉わず、悉も未曾有之御英断を以て去年以来大政御変革、官武一致之御事業施行され、殆ど御成就之時機に至り候処、当時之形行(なりゆき)にては、叡意宇内(=全国)に拡充、各国一致四民安堵之場に至り兼ね、既に八月十八日の一挙(=禁門の政変こちら)之如く深く宸襟悩まされ候御事共、小臣(=久光)悲痛流涕之至りに堪え奉らず、畢竟、臣子之重罪遁れざる儀に御座候得共、恐れながら朝廷にも御旧弊在らせられ候御事に存じ奉り候間、伏て願は以来至尊を始め奉り左右輔弼之公卿方、急度(きっと)天下之形勢・人情事変御洞察、永世不抜之御基本相立て候様、遠大之御見識相居り、聊之儀に御動転在らせられざる処、専要之儀と存じ奉り候。朝令夕改、御政令之軽に出候は、古より衰世之習いに御座候間、此機会に乗じ、皇国挽回之道立てさせられ候も、右之御大志御屹立在らせられ候上ならでは、如何様之良法・奇策御採用相成り候て共、全く其詮之有る間敷く、本立道生之明訓能々(よくよく)御省察在らせられたく存じ奉り候、
右は恐れながら朝廷御根軸相居り候大急務と存じ奉り、(久光が)未だ(勅召の)御用之趣も承知奉らず候得共、大事之御時、黙止罷り在り候ては本志に之無く、愚存之趣言上仕り候。御処置之次第、緩急に付ては愚昧之小臣一己之存慮を以て申し上げ難く候間、列藩上京之上、天下之公議御採用、大策御決定在らせられたき御事と存じ奉り候。
(出所:『玉里島津家史料』ニp530-531採録の草稿。仮書き下し、赤字&()内は管理人。句読点は任意。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)

<ヒロ>
久光は召命により、10月3日に上京していました(こちら)。同8日の前越前藩主松平春嶽宛書簡では、久光は「未だ一句も献言仕らず、偏(ひとえ)に尊兄等の御上京待ち奉り候間、右意味深く御汲み受け、早々御発途成られ候様」と、有力諸侯との合流までは建言をしないと取れることを書いていたのですが(こちら)、我慢ならなかったのでしょうか^^;。

この建白書は、裏を返せば天皇を始めとする朝廷の「旧弊」への批判になっています。「旧弊」は、久光によれば、天下の形勢・人情・事変への洞察がなく、遠大の見識に欠け、わずかなことで動揺するといったことを指し、それゆえ「永世不抜の御基本」が立たないと分析しています。これらを改めない限り、いくら「良法」「奇策」をもちいても「皇国挽回」は無理だと言い切っています。まず、天皇・朝廷が「旧弊」を改め、その上で、諸侯の公議によって国是を決めるべきだというのです。久光を始めとする諸侯さえ上京すれば物事がおさまると安易に期待してもらってはこまる・・・という感じですよね。これは、久光の同志、松平春嶽らと共通した認識だといってよいと思います。特に、久光ら賢明諸侯の考える「国是」とは開国で、政変後も破約攘夷を主張し続ける天皇(朝廷)とは対立するものです。天皇や朝廷に開国という公議を受け入れてもらうには、彼らに天下の形勢・人情・事変への洞察や遠大の見識をもつよう改めてもらわねば・・・というわけだと思います。

参考:『玉里島津家史料』ニp530-53(2004.12.29、2010/4/3)

■浪士組/新選組の政治的側面
【京】文久3年10月15日。新選組は録位の辞退の上書を会津藩公用方に提出しました(宛先は藩主,松平容保)。

「勤で言上候。今般格別の御改革御議定御立て遊ばされ候由。然るは関東表新徴組新規お召し抱えに相成り候趣、依ては我々身体の儀も何とか御沙汰御座候哉の趣、私迄御内意蒙り候段承知、尤も不肖の我々共の身にとり有難き仕合せとは存じ奉り候えども、全体私共儀は尽忠報国の志士、依て今般御召しに相応じ、去る2月中漸々上京仕り、尊き皇命を戴き、夷狄攘斥の御英断承仕りりたき存志にて滞京罷り在り候。外夷攘払の魁したき趣意を是迄愚身を省みず、度々建白奉り候通り、未だ寸志の御奉公(=攘夷の魁となること)も仕らざる内、禄位等下され置き、公勤は有難き仕合せと申しながら、其為、報国志士共、恐れながら万一御処置に撓折(どうせつ:たわんで折れること)致され候儀は如何と心配仕り候。尤も、私共、新徴組の見合いには相成り申さず積りに御座候。私共存意はただただ報国の為の寸効を捧げ相立ちたく、既に去月中より関東に於ても鎖港の趣(=横浜鎖港のこと)承知罷り在り候間、左候えば、漸々攘夷期限仰せ出され候其節、尊命を蒙り、当に醜慮御馬前に御奉公伏して相待ち居り申し、其上いささかの禄位を仰せ付けられ候は有難き仕合せに存じ奉り候。右御沙汰は御暫時のところ御免仰せ付け候儀、組一統伏して願い上げ奉り候。以上

新撰組惣代 局長近藤 」
(読み下しはヒロ)

<ヒロ>
新徴組への対抗意識がのぞく上書です。また「新撰組 惣代」というところにも注目したいです。このころの近藤勇は、まだ独裁的な君主ではなく、隊士の総意を代表する存在だと自らを規定していたようです。この上書は芹沢の死から約1ヶ月後のものですが、隊内には近藤に服さない勢力もまだまだいて、分離の危険があった時期のようです。

ところで、慶応3年、新選組は総員幕臣に取り立てられます。このときに近藤が辞退しようとした動きは伝えられていません。むしろ、自慢に思っていたようです。近藤の「新選組は草莽の志士集団である」という意識はどのへんから変化していったのか・・・。幕臣取り立てに反発して離隊を願い出、逆に謀殺された(切腹説もあり)茨木・佐野ら尊王派の上書と、上記の上書は内容が似通っています。茨木らの言い分は「尊皇攘夷のため尽忠報国の志をとげたくて脱藩し、新選組に加盟したのに、寸効もたてておらず、このまま格式を受けては恐縮である。初志を貫徹できないことも嘆かわしいし、本藩にも面目がたたず、ニ君に仕えることになってしまうので離局させてほしい」でした。

この文久3年時の近藤、そして新選組は輝いているようにわたしには思えます。近藤が、この頃の、自分たちは尊王攘夷を主眼とする尽忠報国の志士であり、録位をもらうことが堕落につながるという気構え、そして自分は単に隊士の総代表なのだという意識をもちつづけることができたなら・・・新選組は現在知られているものとは違ったものになっていたかもしれないと、ふと思いました。

参考:『新選組日誌』・『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)収録の近藤書簡(2000.11.25)

前へ  次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ