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文久3年10月17日(1863.11.27)
【江】将軍家茂上洛辞退&後見職慶喜上洛の幕命
【大津】島津久光の使者・小松帯刀、春嶽と対面し、
春嶽上京後の方針について意見を述べる

■将軍家茂&後見職慶喜再上京
【江】文久3年10月17日、幕府は将軍の上洛を辞退し、後見職慶喜に上京させる旨を奏上しました

将軍上洛辞退の公の理由は、横浜鎖港談判(9月14日に開始)を打ち捨てて上洛できないからでした。『徳川慶喜公伝』によれば、幕府の役人は「将軍一代の2度の上洛はすべきでない」「幕府の財政が欠乏している(上洛には多大な費用がかかる)」と上洛に異議を唱えていましたが、その実は、春の将軍上洛時のような恥辱を再び受けることを恐れたからだとされています。

慶喜は10月26日に江戸を発ち、海路をとって、下田・清水等の諸港を経て、ゆっくり京都に向かいました。11月12日兵庫に着港して21日大坂城に入り、入京したのは11月26日でした。(いよいよ、一会桑勢力の下地ができます^^)

一方、幕府は将軍上洛を一度は辞退しましたが、朝廷は再度、公武合体のための将軍上洛を命じたので、やむをえず、11月5日に上洛を奉答しました。

<おさらい>
慶喜は、東帰後の5月14日、横浜鎖港の勅旨を貫徹できないことを理由に後見職辞表を朝廷に提出し(こちら)、却下されると、6月13日には即時攘夷ができないことを理由に二度目の辞表を提出しました(こちら)。さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分に関して、幕府が自分の意見を採用せず、後見職は名のみで実がないと、6月24日には3度目の後見職辞表を朝廷に提出しました(こちら)。今度も、朝廷から強く慰留されたため、「上京の上委細天意を伺ひ、御沙汰次第、如何やうにも捨身の微忠を尽し奉るべし」との決意を朝廷奏したそうです(こちら)。前後して、京都では将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決め、7月18日に、慶喜に上京の台命が出されました。しかし、幕府は鎖港交渉開始を決定したため(老中以下有司と在府諸侯に不実の交渉開始を通達こちらこちら)、8月13日、慶喜の上京は延期されていました。

8月18日の政変で、攘夷親征を主唱していた尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されましたが、孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、19日に、朝廷は、攘夷督促の令を出しました(こちら)。政変後、幕府には、将軍が再上洛し、その上で開国・鎖国の利害を奏上すべきだとの意見も起こりましたが、23日、慶喜と老中板倉勝静の主張で、鎖港の上での将軍上洛を決定しました(こちら)。一方、9月1日、朝廷は攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下を決定し、守護職・松平容保に攘夷別勅使に随行を命じるとともに、後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰を下しました(こちら)。また、14日には、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために上京・参内した在京老中酒井忠積に対し、改めて攘夷を督促しました(こちら)。同日、江戸では老中が米蘭公使と会見し、横浜鎖港交渉が開始され、27日、朝廷に、鎖港交渉開始に関する慶喜・老中の上奏書が、容保より奏上されました(こちら)。また、6日には前尾張藩主徳川慶勝が別勅使東下中止の上書を提出しました(こちら)。7日、朝廷は別勅使東下猶予を決定するとともに、横浜鎖港交渉について聞くためとして、慶喜の上京を命じると(こちら)、さらに、10日、将軍の上洛も命じていました(こちら)

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉「将軍・後見職の再上洛」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『徳川慶喜公伝』2(2001.11.27)

■春嶽再上京&参豫会議へ
【大津】文久3年10月17日、薩摩藩国父島津久光は上京途上の松平春嶽に小松帯刀を遣わしました

小松は<三郎は公が速やかに上京されることを熱望しており、万一遅延ともなれば、帯刀に福井に赴き、促し申し上げるように申しておりましたが、速やかに御出発と承り、大いに安堵し、今日、旅館に参ることとなりました>と挨拶を述べると、京都の情勢や今後の方針について、以下のように述べました。
  1. 朝廷では、過般の一変動(8.18の政変)後、何とか今後の政体を定めようとしているが、未だに王政に復すか、あるいは「征夷府」へ委任するか、一定の詮議に至っていない。従って、召喚された一橋慶喜を始め賢明諸侯が会同すれば、朝廷はまず第一にこの事を相談するだろう。
  2. 諸侯に相談の上、朝廷が従来通り大政は幕府へ委任と決しても、将軍の上洛なくては、公武合体に至りがたい。幕府は「是非共其御覚悟なかるべからず」である。
  3. 将軍が上洛して公武合体に至っても、幕府の政権を依然として小身の閣老に委ねているようではいけない。天下の人心は最早そのような制度に服さず、大身の諸侯に政権を執らせるという制度を創るべきである。
  4. 朝廷においても威権は摂家方及び伝奏・議奏にのみ帰しているようだが、これを皇族方に帰する事を希望する。
<ヒロ>
有力諸侯の政治参加はかねてからの越前藩の藩論であり、今回の上京では薩摩藩と協力することになります。これは12月、朝廷参与というかたちで実現します・・・。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「越・薩の政変計画」「松平春嶽再上京」■越前藩日誌文久3 
参考:『続再夢紀事』ニp181-182(2004.12.8)

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