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文久3年10月14日(1863.11.24):
【生】生野の乱終結。河上ら13名、農兵に包囲され、自刃
【近江】春嶽上京:松平容保の書簡、上京途中の春嶽のもとに届く

■生野の乱
【生野】文久3年10月14日、生野で挙兵した一党のうち、河上弥一ら奇兵隊士13名は、農兵に包囲されて自刃しました。

前夜、沢宣嘉脱出の報に接した河上らは、妙見山に留まり、諸藩の兵と一戦して討死する覚悟を決めました。しかし、14日朝になって、沢の脱出を知った農兵達が、一党を偽浪士と罵り、ついには彼らを襲撃し始めました。農兵に包囲され、鉄砲を打ち込まれた河上ら13名は、もはやこれまでと自刃しました。彼らはすべて奇兵隊隊士でした・・・。

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【京】文久3年10月14日、上京途上にある松平春嶽のもとに、松平容保からの書簡が届きました

「(前略)京地の形勢御伝聞も候半、次第に変化致し、今に至て貴君御出京の事を考え合い候えば、夢幻の如くに御座候。詰り、過激尊攘の輩、日々切迫、遂に御親征を醸成し(こちら)、小倉征伐強請に及び候義、言語道断、不肖の守護職抔(など)無きも同様に相至り申し候。此の節、貴君方御勤役にも候はば御良考も在らせらるべしと実に遥思の儀度々に御座候。十八日の一変(=禁門の政変のことこちら)、中川宮初め近衛殿(=前関白近衛忠煕)ニ條殿(=右大臣二条斉敬)御両公格別御尽力の御義とは申しながら、実に神明の暗賛と申すべき自然の出来に御座候。此の辺、委細申し上げたく候えども、何分筆紙に届き兼ね候間、追て御出京御面話も候はば相尽し申すべく候。

扨(さて)は御逼塞一條、誠に以て御気の毒至極、小生に於ても已に済ませられ候義と存じ居り候處、御所より案外の御沙汰(こちら)にて、早々御内談申し上げ候えども相届き兼ね、遂に御一書御差出し抔(など)申す事(こちら)相成り、御気の毒を重ね候次第に御座候。就(つい)ては御懇意に負かせ、失敬憚らず存念抔申し候次第、其の委詳は御家臣(=島田近江)より申し上ぐべし(こちら)

扨、此の程に至り、先達てより詰合い候諸侯(在京諸侯)共、追々賜暇の向きも之有り候えども、島津三郎(=薩摩藩国父島津久光)、長岡澄之助・良之助(=肥後熊本藩主細川斉護の子。細川護久・護美兄弟)等出京仕り、三郎には未だ面会仕らず候えども、内使にて申し越し候義も之有り、右細川両人へは早速面会、追付、閑叟 (=前肥前佐賀藩主鍋島閑叟)容堂(=前土佐藩主山内容堂)抔も出京の儀と承り候。何れ一同尽力基本相立て候様仕りたき志願に御座候。去りながら、上様(=将軍徳川家茂)御上洛遊ばされず候ては、綱紀立難き次第之有り候間、追て御上洛遊ばされ候様祈願罷り有り申し候。何卒貴君にも御出京御尽力在らせられ候様仕りたく、御恩免の上は、屹度(きっと)小生より申上方も之有るべきと存じ居り候處、早速勅免仰せ出され、直に御上京の儀も仰せ蒙られ候趣、実に謹喜此の事に御座候。何れ未曾有の変革、中々以て小生微力の及ぶところに御座無く、唯々御出京町上げ奉り候。余は拝眉の時を期し候。恐々謹言。


(略)中根雪江儀兼て御寵用の者に承り候處、近頃外向へ転ぜられ候由(こちら)
。弥(いよいよ)御出京にも候はば、召し連れられ候様仕りたく、小子に於て希う所に御座候。(後略)

十月十一日                肥後守
  春嶽様」

<ヒロ>
春嶽は3月の無断辞職・帰国によって逼塞処分を受けましたが(こちら)、5月に幕府はこれを解除していました。しかし、朝廷は春嶽の逼塞が解除されたとは認識しておらず、8月の政変後も春嶽は上京することができませんでした(こちら)。この状況を案じた守護職松平容保は、伝奏から春嶽が御詫書を提出すれば許されるだろうとの内示を得て、これを越前藩に報知しました(こちら)。春嶽は容保の助言を容れて、10月3日、詫書を提出させました(こちら)。同月6日に赦免状が下り(こちら)、同7日に、上京の沙汰が下りていました(こちら)。側用人島田近江から知らせをうけた春嶽は、13日に福井を出発していました。

関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.7)

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