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文久3年10月8日(1863.11.18)
【京】越前藩士島田近江、京都出立
【京】島津久光、松平春嶽に速やかな上京を促す

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■春嶽再上京
【京】文久3年10月8日)、越前藩側用人島田近江は、春嶽上京の沙汰(こちら)を伝えるために京都を出発して福井に向かいました。


【京】文久3年10月8日、滞京中の薩摩藩国父島津久光は前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽に速やかな上京を促す書簡を認めました

「(前略)先般御重臣両三輩、熊(=熊本)と遠国(=鹿児島)迄御使い差遣させられ、御定論の件々被仰聞、且つ御国産之品々御恵投下され、御厚情、別て辱く存じ奉り候。貴答の儀、御使いへ托し置き候間、定めて御聞取り下され候儀と存じ奉り候。

愚拙にも先月十二日幣邑(=藩地)発足、海陸無異、去る三日着京仕り候間(こちら)、憚りながら御安慮願い奉り候。【関連: 「島津久光召命」】

(管理人注参照)

略致承知候えば、尊兄(=春嶽)御上京一條、朝議聊(いささ)か御不穏の趣之有る由に候得共(こちら)、今般御達しの義(=春嶽上京の沙汰のこと。こちら)も御座候えば、此の上は一日も早く御上京成られ候様存じ奉り候。愚拙にも途中より少々風邪に侵され、未だ何方へも参殿仕らず候えば、方今朝廷の御模様細微伺い得申さず、併(しか)しながら、正義立たせられ兼ね候趣に伺われ候間、何卒(なにとぞ)速やかに御登京御尽力の處、渇望奉り候。然る時は御約束の趣(=上記の朝幕改革への協力)も御座候に付、驥尾(きび)に随い(=優れた人についていくこと。春嶽をたてている言葉)、周旋仕りたき含みに御座候。兎角、方今の形勢、公平正大の議論を以て朝廷を助け奉らず候ては、迚(とて)も神州挽回、公武御一和の道も之有る間敷と愚考仕り、未だ一句も献言仕らず、偏(ひとえ)に尊兄等の御上京待ち奉り候間、右意味深く御汲み受け、早々御発途成られ候様、万々希望奉り候。

尤(もっと)も一橋卿(=後見職一橋慶喜)にも御召の勅諚在らせられ候由故、遠からず御登京の筈と存じ奉り候。其の外、容堂兄、伊達豫州(=伊達宗城)等も御召し相成り候。御心得の為、此の段も申し上げ置き候。

先ずは御上京促し奉りたく、乱毫以て貴意得奉り候。恐惶謹言」
(『続再夢紀事』収録の候文をさらに書き下しby管理人。句読点、段落は任意。()内の注釈も管理人。管理人は素人なので、著作物に参考にする場合は必ず原典にあたってね)

管理人注:この年の7月、越前藩では、挙藩上京して朝幕に改革を迫る藩論((1)国是については、各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、 (2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることの2点を柱とする。こちら)を確定し、肥後・薩摩に協力を求めるために家老岡部豊後らを九州に派遣した。一種の政変計画である。彼らが熊本を経て鹿児島に到着したのは8月上旬で久光が同意の返書を認めたのは8月14日だった。しかし、このとき、既に越前藩では藩論が一転して挙藩上京派は更迭されており(こちら)、政治顧問の横井小楠も福井を去っていた(こちら)。また、肝心の京都では、前日の13日に攘夷親征の沙汰が発表され、当初、越前藩との連携を考えていた在京薩摩藩士(こちら)は、まさに会津藩・中川宮と連合して政変を起そそうとしていました(こちら)。久光の返書を携えた岡部が福井に帰りついたのは禁門の政変から11日経過した29日だった。【関連:「越前藩の挙藩上京(越・薩提携による政変)計画」】

<ヒロ>
この久光書簡に名前の出てくる一橋慶喜・山内容堂・伊達宗城は、のちに春嶽・久光・容保とともに参豫会議のメンバーとなります。

関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■越前藩日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3 
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.4)

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