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■春嶽再上京 【京】文久3年10月8日)、越前藩側用人島田近江は、春嶽上京の沙汰(こちら)を伝えるために京都を出発して福井に向かいました。 【京】文久3年10月8日、滞京中の薩摩藩国父島津久光は前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽に速やかな上京を促す書簡を認めました。
管理人注:この年の7月、越前藩では、挙藩上京して朝幕に改革を迫る藩論((1)国是については、各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、 (2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることの2点を柱とする。こちら)を確定し、肥後・薩摩に協力を求めるために家老岡部豊後らを九州に派遣した。一種の政変計画である。彼らが熊本を経て鹿児島に到着したのは8月上旬で久光が同意の返書を認めたのは8月14日だった。しかし、このとき、既に越前藩では藩論が一転して挙藩上京派は更迭されており(こちら)、政治顧問の横井小楠も福井を去っていた(こちら)。また、肝心の京都では、前日の13日に攘夷親征の沙汰が発表され、当初、越前藩との連携を考えていた在京薩摩藩士(こちら)は、まさに会津藩・中川宮と連合して政変を起そそうとしていました(こちら)。久光の返書を携えた岡部が福井に帰りついたのは禁門の政変から11日経過した29日だった。【関連:「越前藩の挙藩上京(越・薩提携による政変)計画」】 <ヒロ> この久光書簡に名前の出てくる一橋慶喜・山内容堂・伊達宗城は、のちに春嶽・久光・容保とともに参豫会議のメンバーとなります。 関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■越前藩日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.4) |
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