12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

前へ 次へ

文久3年10月22日(1863.12.2)
 【京】松平春嶽、山内容堂に上京を促す/
【京】春嶽、薩摩藩高崎猪太郎に幕府は「天下公共の理」に基づき
速やかに「私」を脱却すべき、長州処分は寛大にと語る。

【京】大久保一翁、春嶽に「公議所」設置を提言する
【江】後見職一橋慶喜再上京(3)慶喜、上洛前に暇乞の登城
【長】桂、進発尚早論を唱える

■参豫会議へ
【京】文久3年10月22日、松平春嶽は、山内容堂に上京を促す書簡を認めました。
「(前略)何分橋公(=慶喜)登京、足下(=容堂)長面(=伊達宗城。馬面だから)共に西上之有り、僕すでに滞京せり。兆京守護(=松平容保)を合わせて五名となれり。是と三郎(=島津久光)議して必 公武の親和・鎖港の朝議を弛めんとする意なるべし。其の上大樹公(=将軍家茂)御上洛も之有るべく、ともかくも何卒不日登京成さるべく候。其の上にて早速意衷尽し申し上ぐべく候(後略)」(『続再夢紀事』ニp190-191。候文をさらに書き下しby素人の管理人、句読点は任意。原文として扱わないでください)
<ヒロ>
容堂に上京を促す手紙を書くことは、前々日(11月30日)の島津久光との会談時(こちら)に決まったことでした。

書簡中、春嶽は、宗城を「長面」なんて呼んでますが、略した部分では慶喜を「剛情公」と書いたりもしています。全体的に諧謔味のある書簡で、春嶽と容堂の関係が推し量れて面白いと思います^^。(ちなみに、久光や容保への書面は真面目です)

【京】同日、春嶽は、訪ねてきた薩摩藩士高崎猪太郎(高崎五六)に時勢に関する意見を求められ、公武合体実現のためには朝幕ともに公明正大であることが必要であり、幕府は「天下公共の理」に基づき速やかに「私」を脱却すべきだと語りました。また、長州処分については、無謀な行為のみを罪に問い、その他は寛大に扱うべきだと述べました

高崎は、春嶽の容堂宛書簡(上記)がまだ土佐藩邸に届かないので、確認するためにやってきました。土佐藩では飛脚の手配も済まし、書簡の到着を待ちかねていたようです。春嶽は書簡はすでに認めていたので、話は国事のことになりました。

高崎 <最近の時勢をどう思われますか?>
春嶽 一橋公始め、有名諸侯へ相談の上でなくてはこのような衰世を挽回する見通しは立ち難い。この頃では誰もが公武合体が第一だと言う。しかし、(1)朝廷が幕府を疑わずにその言上するところを納めること、(2)「幕府は従来の私を脱却して一意に叡慮を奉じ、御双方とも公明正大の域に達せられ」ることがなくては、合体は困難である>
高崎 <ご意見はもっともです。薩摩藩も兼てから同様の意見ですが、最近の幕府においては「私」を脱却することは非常な難事でしょう>
春嶽 <幕府の「私」は近世、井伊(=井伊直弼)・安藤(安藤信正)の輩から起ったものではない。既に神君(=徳川家康)創業の頃より専ら幕府に利のある事のみを務め、朝廷に利あることは殆ど顧みられず、爾来二百余年それが続いてきたので、一朝にこれを脱却しようとするのはいかにも難事だろう。しかしながら、神君から三代の頃のように人を得て政を行うならともかく、「其人にあらずして其政を行ふに至りては到底其私を遂げ得」べくもない。よって「(幕府は)今日は是非を改むるに猶予せず、天下公共の理に基き、速かに其私を脱却せらるべき」である
高崎 <先日、高知に行き、容堂公に拝謁しました。公は、<<最早隠遁して天下の事には関係しないとの決心で総髪にまでなったが、その方が天下の為に尽力苦心する様子を見聞すれば、実に感慨に耐えない。足痛で直ぐに出京はなしがたいが、追々平癒すれば必ず出京しよう。その決心を示す>>として、忽ち月代を剃られました。また、<<長州の事はどのような処置となるべきか、もし御討伐となればこの方へ討手を命じられるよう願いたいものだ>>とお笑いになりました。もっとも長州の事を容堂公はこのようにおっしゃいましたが、長州一藩ことごとく暴論ではないでしょう。その中には必ず、過ちを悔いる輩もいるのではないでしょうか>
春嶽 <拙者も高崎の申す方に同意で、容堂の意見とは異なる。畢竟、長州が夷船を攻撃したのは、朝幕とも未だ打払いの期日を示される前の事で、その罪は軽くは無い。しかし、攘夷すべしとの御趣意は兼て朝廷から仰せ出さ、幕府よりも同様に達せられた事であり、朝幕とも御失体がないとはいえない。よって、無謀な行為の罪のみを問い、その他は寛大にみるべきである。そのような処置となれば、長州も前過を悔い、罪を謝するに至るのではないか
参考:『続再夢紀事』ニp191-194(2004.12.11)

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3「参与会議へ」「長州処分&家老の入京歎願」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■大久保一翁
【京】文久3年10月22日、大久保一翁の書簡が春嶽のもとに届きました。

<ヒロ>
書簡には、将軍・後見職・諸藩だけでなく四民を「公議所」に集め、公卿も出座の上で「天理の当然」を決めることを提言するなど、「さすが一翁」という興味深い内容が書かれていますが、いかんせん、長文(4ページ)の候文で、書き下すだけでも時間がかかってしまいます・・・^^;。大久保一翁は横井小楠と並んで管理人が特に興味をもつ幕末人物ですので、のちほどフォローしたいです。(小楠・一翁・春嶽・海舟・・・等々。管理人が興味をもつのは、みな「政は徳川という「私」に属するものではなく、天下(「公」)のものであり、公議・衆議が大事」というのが基本の人なんですよね。もちろん、別サイトのメインである伊東甲子太郎の思想も同じ方向性です^^)

関連:■テーマ別文久2「大久保一翁」■テーマ別文久3「参与会議へ
参考:『続再夢紀事』ニp195-199(2004.12.11)

■慶喜再上京
【江】文久3年10月22日、将軍後見職の一橋慶喜は上洛の途につくため暇乞いに登城しました

<ヒロ>
朝廷は、横浜鎖港交渉について聞きたいことがあるとして、同月7日に慶喜上京を命じ(こちら)、同10日には将軍家茂上洛の勅命を出していました(こちら)。幕府は将軍上洛には反対で、鎖港交渉を口実に慶喜だけを上洛させることを決めましたが(こちら)、朝廷は「公武一和して天下の大策を立て」るためとして将軍上洛を再度命じました。慶喜の上京も幕府の役人は留めたそうですが、慶喜は「勅命なれば是非とも上京と決断」(伊達宗城在京日記)し、26日を出発と決めてこの日江戸城に挨拶に登城したのでした。

幕府をおしきって上京を決めた慶喜に対して、「不快」を示す役人が少なからずいたようです。また、「尽忠報国有志」によっても、「今般一橋殿御上京の儀、全く姦謀有之ことにて、天朝の御不為、かつ徳川家の安危にかかわり」として、上洛を留めるために道々の本陣に放火するとの予告状が張り出されたほどでした。この日までに既に品川の旅籠が放火されたそうです。そして・・・(文久3年10月23日の「今日」に続く)

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉「将軍・後見職の再上洛」参与会議へ」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『徳川慶喜公伝』2、『徳川慶喜増捕版』(2001.12.2)

■長州藩進発
【長】文久3年10月22日、真木和泉は率兵上京三策を諸卿に建策しました。

上策 世子の率いる軍に三条実美らも加わり、五万の大軍が出兵する。支藩は東西北海を守る。一隊が海路大坂に向かい、大坂城を占領して敵の糧食を絶つ。別の二・三隊は河内に入り、民を撫して大坂に呼応させる。続く二・三隊は密かに入京し、二条城・役所を焼き討ちにする。さらに進んで膳所彦根城を焼き討ちにし、湖東に屯集して東山・北陸道を固める。また、師王(?)と約して越羽に挙兵して会津の虚をつき、「覇府(=幕府)」の西上を不可能にする。世子は嵯峨に入って、朝廷に中川宮の罪を糾すよう奏し、鷹司関白に秘策を授け、万里・烏丸その他諸卿に内応させる。
中策 世子の率いる軍五千人を中軍とし、これに前軍千五百人と三条実美らの加わる後軍千五百人を京坂に出兵し、嵯峨・嵐山に屯集する。鷹司関白に8月18日の政変前後の邪正を訴え、会津の非を糾すことを願い、諸侯には長州藩援助を請う。大坂城・三井寺・丹波・丹後・若狭地方を攻略する。
下策 京都付近に軍を展開した後、鷹司関白に8月18日の政変前後の邪正を糾してほしいと長州の冤を訴え、諸侯の陣所には長州の冤を雪いでほしいと懇願する。徐々に勝ち進んで会津の罪を鳴らし、にわかに兵を宮中に入れて政変を起こす。(=禁門の政変で会薩の採った策を採る)

<ヒロ>
かなり過激な策ですが、現実性性があるかどうかは別の問題で、長州藩庁でも、この時期、六卿や浪士の激論を慰撫し、進発を抑えることに努めていました。藩士のうち、進発論に同調していたのは、来島又兵衛・中村九郎で、周布政之助・桂小五郎・高杉晋作らは進発尚早論だったそうです。

■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史 四上』p557-558(2004.12.17)

前へ 次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ