12月の「今日 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■参豫会議へ 【京】文久3年10月22日、松平春嶽は、山内容堂に上京を促す書簡を認めました。
容堂に上京を促す手紙を書くことは、前々日(11月30日)の島津久光との会談時(こちら)に決まったことでした。 書簡中、春嶽は、宗城を「長面」なんて呼んでますが、略した部分では慶喜を「剛情公」と書いたりもしています。全体的に諧謔味のある書簡で、春嶽と容堂の関係が推し量れて面白いと思います^^。(ちなみに、久光や容保への書面は真面目です) 【京】同日、春嶽は、訪ねてきた薩摩藩士高崎猪太郎(高崎五六)に時勢に関する意見を求められ、公武合体実現のためには朝幕ともに公明正大であることが必要であり、幕府は「天下公共の理」に基づき速やかに「私」を脱却すべきだと語りました。また、長州処分については、無謀な行為のみを罪に問い、その他は寛大に扱うべきだと述べました。 高崎は、春嶽の容堂宛書簡(上記)がまだ土佐藩邸に届かないので、確認するためにやってきました。土佐藩では飛脚の手配も済まし、書簡の到着を待ちかねていたようです。春嶽は書簡はすでに認めていたので、話は国事のことになりました。
関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3「参与会議へ」「長州処分&家老の入京歎願」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■大久保一翁 【京】文久3年10月22日、大久保一翁の書簡が春嶽のもとに届きました。 <ヒロ> 書簡には、将軍・後見職・諸藩だけでなく四民を「公議所」に集め、公卿も出座の上で「天理の当然」を決めることを提言するなど、「さすが一翁」という興味深い内容が書かれていますが、いかんせん、長文(4ページ)の候文で、書き下すだけでも時間がかかってしまいます・・・^^;。大久保一翁は横井小楠と並んで管理人が特に興味をもつ幕末人物ですので、のちほどフォローしたいです。(小楠・一翁・春嶽・海舟・・・等々。管理人が興味をもつのは、みな「政は徳川という「私」に属するものではなく、天下(「公」)のものであり、公議・衆議が大事」というのが基本の人なんですよね。もちろん、別サイトのメインである伊東甲子太郎の思想も同じ方向性です^^) 関連:■テーマ別文久2「大久保一翁」■テーマ別文久3「参与会議へ」 参考:『続再夢紀事』ニp195-199(2004.12.11) ■慶喜再上京 【江】文久3年10月22日、将軍後見職の一橋慶喜は上洛の途につくため暇乞いに登城しました。 <ヒロ> 朝廷は、横浜鎖港交渉について聞きたいことがあるとして、同月7日に慶喜上京を命じ(こちら)、同10日には将軍家茂上洛の勅命を出していました(こちら)。幕府は将軍上洛には反対で、鎖港交渉を口実に慶喜だけを上洛させることを決めましたが(こちら)、朝廷は「公武一和して天下の大策を立て」るためとして将軍上洛を再度命じました。慶喜の上京も幕府の役人は留めたそうですが、慶喜は「勅命なれば是非とも上京と決断」(伊達宗城在京日記)し、26日を出発と決めてこの日江戸城に挨拶に登城したのでした。 幕府をおしきって上京を決めた慶喜に対して、「不快」を示す役人が少なからずいたようです。また、「尽忠報国有志」によっても、「今般一橋殿御上京の儀、全く姦謀有之ことにて、天朝の御不為、かつ徳川家の安危にかかわり」として、上洛を留めるために道々の本陣に放火するとの予告状が張り出されたほどでした。この日までに既に品川の旅籠が放火されたそうです。そして・・・(文久3年10月23日の「今日」に続く) 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」「将軍・後見職の再上洛」「参与会議へ」 ■徳川慶喜日誌文久3 参考:『徳川慶喜公伝』2、『徳川慶喜増捕版』(2001.12.2) ■長州藩進発 【長】文久3年10月22日、真木和泉は率兵上京三策を諸卿に建策しました。
<ヒロ> かなり過激な策ですが、現実性性があるかどうかは別の問題で、長州藩庁でも、この時期、六卿や浪士の激論を慰撫し、進発を抑えることに努めていました。藩士のうち、進発論に同調していたのは、来島又兵衛・中村九郎で、周布政之助・桂小五郎・高杉晋作らは進発尚早論だったそうです。 ■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史 四上』p557-558(2004.12.17) |
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