12月の「今日 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■家茂再上洛 【京】文久3年11月20日夕、薩摩藩士高崎猪太郎が越前藩邸を訪問し、各藩から将軍上洛を促す使者を出すことを相談しました。 高崎は、応対した中根靱負(雪江)に<昨日、御相談の上、(将軍上洛を促すために)永井主水正(=町奉行永井尚志)を東下させることに決められたが(こちら)、関東にもし(江戸城火災を理由にして)上洛を延期すべきとの議があれば、永井だけ東下してもその議を説破することは覚束ないでしょう。そこで在京各藩からも別に使者を出し、決議の旨を幕府に建白し、永井に力添えしてはどうかと、三郎が気づいたので、その相談に参りました>と述べました。中根からこれを聞いた前越前藩主松平春嶽は高崎に対面し、同意の旨を答えました。さらに、伊達宗城(前宇和島藩主)・黒田慶賛(筑前福岡藩世子)には薩摩藩が、細川澄之助・良之助兄弟(肥後熊本藩公子)へは越前藩が相談することを協議しました。 また、各藩すべてに異存がなければ、越前藩からは島田近江・内田閑平、会津藩からは小野権之丞、宇和島藩からは井関斎右衛門、薩摩藩からは島津主殿、肥後藩からは長谷川仁右衛門を遣わすことになったそうです。 関連■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年「将軍・後見職の再上洛」■薩摩藩日誌文久3 ■越前藩日誌文久3 参考:『続再夢紀事』ニp241-242(2005.1.1) ■勝&吉井 【江】文久3年11月20日、薩摩藩士吉井幸輔が江戸出張中の軍艦奉行並勝海舟に、将軍上洛の勅命周旋について相談しました。 吉井は「(将軍)御上洛の儀、大城炎上(江戸城焼失)にて遅緩に流れむ。また諸有司、(横浜)鎖港を為して後御上登然るべしと云もの、大抵議論者の説、皆是なり。極密に周旋せむには、今大城炎上、鎖港の決議に及ばば、必ず事機によっては、一戦も知るべからず。此炎上に付て暫く御猶予あり、速かに御上洛あるべき旨、勅あらば如何。此周旋もし薩にて為すこと他に漏れなば、必定行はるべからず」と述べ、勝にどう思うかを尋ねたそうです。 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p131-132(2005.1.1) 関連■テーマ別文久3「勝海舟」■薩摩藩日誌文久3 ■長州進発 【長】文久3年11月20日、長州藩遊撃隊来島又兵衛らは、藩主毛利敬親に世子定広の速やかな上京を請いました。) ■テーマ別文久3「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『維新史料綱要』五(2004.12.21) |
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