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文久2年12月25日(2.13):
【京】容保、近衛忠煕関白に謁す/
【江】容堂、春嶽を訪ねて幕府の朝廷尊奉事項を内談。

■守護職着任
【京】文久2年12月25日、前日に入京した守護職松平容保は、関白近衛忠煕と会見し、所思を述べました。容保の陳述内容は、先日提出した公武一和の建白(長崎・箱館・下田の三港外閉鎖等:こちら)と変わらなかったそうです。これに対し、関白は、容保の言を一々善として称したそうですが、ただ三港外閉鎖については、ニ港を閉鎖して一港だけを開きたいとの異論を述べたそうです。

<ヒロ>
近衛関白は容保一行を厚くもてなし、陪従した小森久太郎・小野権之丞にも謁見を許し、また従者にまで酒を振舞ったそうです。また、この当時、近衛はすでに関白辞表を提出していましたが、内覧は続けるつもり(要するに名を捨て実を取る)だと明かしたそうです。薩摩藩とは関係の深い近衛関白ですが、ちょっと容保にも期待しているようですよね。

会津藩士(のち公用方)広沢安任の手記(「鞅掌録」)では、そのへんの事情をこのように説明しています。

「先に京師に三藩の称あり。薩州長州土州をいう。皆共に勤王を称し京地の権暗にこれに帰し、随て脱藩の士浮浪の徒相煽起し、勢焔甚だ盛んなり。而して薩州いよいよ自ら異にし長土二藩これを疑う。然れども(薩摩は)殿下に親しみ厚く、又殿下(は)職に任せられ(久光を守護職に任じ?)、(近衛は)専ら薩州の建言を用いられ薩州関白の称あり。二藩、窃かにその(=近衛関白そして薩摩藩の)勢いを殺がんことを謀り、三條中納言実美卿・姉小路少将公知朝臣等に依る。実美卿・公知朝臣等年少気鋭にしてその(=長州・土佐の)入説を信じ、いよいよ殿下と相抗せらるるに至る故、殿下解職の念を生ぜられ、又我が公(=容保)の新たに至りたまえるをもって、これに頼りたまえるの意あるし也」(読みやすいように、管理人がカタカナや漢字を平かなに換えたり、句読点をつけるなどしています)

参考:『会津藩庁記録』三(2004.2.13)
関連:■テーマ別:「容保VS幕閣」■守護職小史「3-1 容保の入京と公用方設置」■守護職日誌文久2

■幕府の公武合体派連合策
【江】
文久2年12月25日、前土佐藩主山内容堂は、政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽を訪ね、上京後の方針について内談しました。その中で、幕府の朝廷尊奉事項を確認したようです

<ヒロ>
確認内容は『続再夢紀事』に載っていないのでわかりません。いわゆる「士道忘却事件」(こちら)で小楠が京都にいけないことになったので、公武合体派連合策は春嶽と容堂の動きいかんにかかっていることになります。小楠抜きという予想外の事態でどのようにするかという方針の確認だったのかもしれません。

参考:『続再夢紀事』一(2004.2.13)
関連:■テーマ別:将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合による公武合体派会議、■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策

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