■総裁職松平直克厳督問題 【京】文久4年1月17日(1864年2月24日)、前越前藩主松平春嶽は、中川宮のもとへ藩士中根雪江を遣わし、過日総裁職松平直克に「厳督」を願い出ていた件につき、直克は着京後「大に了解の模様」であるので厳督には及ばないことを伝えるとともに、直克参候の際には「御愛憐の御旨趣」をもって「垂諭」あるよう願わせました。 直克は、この日、中川宮に面会の予定でしたので、その前に中根を派遣したのだと思われます。 ここでのポイントは、「厳督」の必要はないとしながらも「垂諭」はお願いしている点です。中川宮が直克に面会して、幕府の旧習への復活(つまり、文久2年の幕政改革の反故による幕権回復)に釘を指す、という方針に変りはないのです。 <おさらい:直克厳督問題> これより前、慶喜は、直克が将軍上洛時に幕権回復を企図しているとみなしており、春嶽に善後策を相談していました(こちら)。その結果を受けてさらに中川宮・春嶽・伊達宗城が協議した結果、直克が上京した際には中川宮邸に呼び出し、幕府の旧習への回復は許されないと諭す手はずになっていました(こちら)。しかし、1月15日(16日説あり)に二条城に登城した慶喜は、直克・老中の変化を感じ取り(こちら)、同月16日、春嶽に対し、中川宮にもはや厳督に及ばない旨を伝えるよう依頼していました(こちら)。 参考:『続再夢紀事』ニp356(2008.12.31) ■服制復旧問題 【京】文久4年1月17日(1864年2月24日)、政事総裁職松平直克(川越藩主)が京都守護職・会津藩邸に松平容保を訪ね、幕府が服制を復旧したことで後見職一橋慶喜が不満をもっている件について、取り成しをしてくれるよう相談をしました。 『続再夢紀事』によれば、直克の相談は以下のような内容でした。
これに対し、容保は、その役割を果たすのは春嶽以外に適任はいないと答えたそうです。といっても、服制復旧時に江戸にいて「殊の外切迫」した状況を心得ている家臣の小野権之丞を春嶽に遣わして、話を伝えるつもりなのですが、そのことを直克に伝えたのかどうか、『続再夢紀事』からは不明です。 (*1) 「芙蓉間の輩」とは、江戸城芙蓉間に伺候する役職づきの人びとのことで、芙蓉間席には大目付・諸奉行(町奉行、勘定奉行、作事奉行、普請奉行など)の幕府高官、御三家家老などが伺候します。 (*2)文久2年の幕政改革を指す(こちら) <おさらい:服制の復旧> 服制の簡素化(熨斗目・長袴の廃止など、衣服省略の命)は、慶喜・春嶽の主導した文久2年の幕政改革の柱の一つでした。しかし、『徳川慶喜公伝』によれば、幕臣の一部は、かねてから文久2年の幕政改革は幕威の衰退につながるとみて、事あるごとに新制を廃止し、もとに戻そうとしました。そして、慶喜が上京のため江戸を出立(文久3年10月26日)した後、衣服省略の命を改め、服制が復旧されたのでした(11月12日。10日説あり)。 <ヒロ> 直克が容保を訪ねた時刻は不明ですし、いつどの時点でどのように慶喜の不満を知ったのかも、手持ちの資料からはよくわかりません。でも、管理人は、直克が、中川宮の「垂諭」を通してこのことを知り、あわてて容保のもとにやってきたのではと憶測しています。もし、そうだとすると、つい先日に慶喜に対する「疑念が氷解」し、関係を修復した直克及び老中にとっては、青天の霹靂だったことでしょう(1月15日)。問題解決には慶喜と直接話をするのが一番ですが、ためらわれて仲介人を求めた気持ちもわかる気がします。そこで春嶽ではなく、以前からあまり政治的手腕を期待されていない容保を頼ったのは、やはり春嶽を頼ることがためらわれたからではないでしょうか。従来、春嶽に対する老中らの評判は、隠居の身でいらぬことばかりするという否定的なものであり、先日の慶喜の話で彼の尽力を理解したところであるし、何より春嶽は慶喜と並んで文久2年の幕政改革の主導者であり、慶喜同様に服制復旧によい印象をもっていないだろうことは容易に予測されるでしょうから・・。 さて、直克がせっかく容保を頼ったのに、容保は自分より春嶽がよいという・・・。病中であることも影響しているかもしれませんが、自分がなんとかしようという積極性が感じられませんよね。春嶽が適任といわれたときの直克の反応は不明ですが、「こりゃだめだ」と思ったのかもしれません。翌朝には老中とともに慶喜を直接訪ねています。 参考:『続再夢紀事』ニp358、『江戸幕府役職集成』、『徳川幕府事典』(2008.12.27, 12.31) ■朝廷参豫会議(4回め) 【京】文久4年1月17日(1864年2月24日)夜、小御所下段で朝廷参豫会議があり、 (1)将軍参内の手続き、及び(2)公武一和に鑑みた朝廷・幕府のお互いの扱い方について下問がありました。 参豫側は一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城・島津久光の4名が出席しました。久光にとっては初めて参豫する朝議でした。 さて、下問について、春嶽は、朝幕ともどのように礼儀を尽くしても、儀式のみでは却って阿諛に陥るので、「朝廷よりは真に幕府を御愛重在らせられ幕府よりは誠意を以って臣事の実を挙るが肝要」である等々回答しました。 なお、参豫辞退を願いでている山内容堂・病中の松平容保は欠席でした。(容保は2日前の将軍入京時に諸侯が挨拶に登城したときも、登城が困難なので家臣を遣わしています) 表:これまでの朝廷参豫会議出席者と議題
参考:『続再夢紀事』ニp354、『玉里島津家史料』ニp744(2008.1.20) 【京】同日、朝廷参豫会議に先立って参内した薩摩藩国父島津久光は、叙任(こちら)の恩を謝しました。また、小御所で孝明天皇に謁見し、天盃を頂戴しました。このとき、天皇は、去年の秋の薩英戦争における功績を賞し、久光に鞍馬、久光の子で藩主の茂久に馬を下賜しました。さらに家臣へと金十両が下されました。 <ヒロ> 久光は参内の前後に懇意にしている近衛家に挨拶によっています。こういうことは大事なんですよネ。いつの時代でも。 参考:『玉里島津家史料』ニp744(2008.1.20) 【京】文久4年1月17日(1864年2月24日)、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)が入京しました。 ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別元治1「将軍再上洛へ」「朝議参豫の動き」 【江】文久4年1月17日(1864年2月24日)、英国代理公使ニールは、幕府に対し、ロンドン覚書の破棄・諸侯との直接通商開始の改善を迫りました。 参考:『維新史料綱要』五(2008.12.27) |
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