■服制復旧(文久2年の幕政改革反故)問題 【京】文久4年1月18日(1864年2月25日)、幕府は服制の復旧を停止しました。 この日の朝、総裁職松平直克と老中有馬道純が、一橋慶喜を訪れ、幕府が服制を復旧した委細の事情を説明しました。いろいろ議論の結果、将軍滞京中に二条城に登城する際は旅装を用いることを評決し、大目付が関係者に通達することになりました。 実は、直克は前日に守護職松平容保(会津藩主)を訪ねて服制復旧について江戸の事情を説明し、慶喜にとりなすよう依頼していました(こちら)。容保は春嶽が適任であると回答しており、この日、家臣を春嶽に遣わして周旋させるつもりでいましたので、直克は、容保には知らせぬまま、直接行動を起こしたことになります。 <おさらい:服制復旧問題の経緯> 服制の簡素化(熨斗目・長袴の廃止など、衣服省略の命)は、慶喜・春嶽の主導した文久2年の幕政改革の柱の一つでした。しかし、『徳川慶喜公伝』によれば、幕臣の一部は、かねてから文久2年の幕政改革は幕威の衰退につながるとみて、事あるごとに新制を廃止し、もとに戻そうとしました。そして、慶喜が上京のため江戸を出立(文久3年10月26日)した後、幕府は衣服省略の命を改め、服制を復旧していました(11月12日。10日説あり)。 そういう江戸の事情をきいてか、慶喜は、直克が将軍上洛時に幕権回復を企図しているとみなしており、春嶽にその善後策を相談していました(こちら)。その結果を受けてさらに中川宮・春嶽・伊達宗城が協議した結果、直克が上京した際には中川宮邸に呼び出し、幕府の旧習への回復は許されないと諭す手はずになっていました(こちら)。しかし、1月15日(16日説あり)に二条城に登城した慶喜は、直克・老中の変化を感じ取り(こちら)、同月16日、春嶽に対し、中川宮にもはや厳督に及ばない旨を伝えるよう依頼していました(こちら)。翌17日には中川宮と直克の会見が予定されていました。17日朝、春嶽は中川宮に藩士を遣わし、厳督には及ばないこと、愛憐をもって垂諭を願いたいことを伝えさせていました。同じ日、直克は守護職松平容保を訪れて、服制復旧について慶喜が直克に不満をもっている件について、慶喜にとりなしてくれるよう依頼しました(こちら)。 <ヒロの憶測:服制復旧問題解決を急いだ裏事情> 直克は、最初、容保を訪ねて取り成しを頼んでいたのですが、その翌朝には老中を伴って、直接慶喜に説明にいっています。春嶽に任せたいとする容保の返答に心もとなさを感じたという可能性もありますが、なんだか、急いてますよね?しかも、当初は、服制復旧にいたる事情を慶喜に理解してもらおうという方針だったのに、最終的には(慶喜の望むかたちの)復旧停止を決断しています。もしかすると直克や老中にとって、服制復旧問題について慶喜との溝を埋めることは、急を要することだったのではないでしょうか? ○慶喜懐柔の緊急性? 直克は前日に面会した中川宮から幕府の旧習復活について「垂諭」されたとみられますが(こちら)、管理人はそのときにこの件について、中川宮からプレッシャーをかけられていた可能性があるのではと思っています。また、慶喜は将軍後見職ですが、朝議参豫でもあります。朝議参豫は、定期的に参内し、朝廷の下問に対して意見を述べることができる、幕府とは独立した立場にあります。総裁職・老中入京後も、朝廷参豫会議は既に2度開かれていました。幕府は朝議参豫という、自分たちにはない朝廷とのチャンネルを有し、自分たちのコントロール外にある存在を意識せずにはおられなかったはずで、その存在を不気味に感じていたのではないでしょうか。将軍参内は3日後の1月21日に迫っています。朝議参豫である慶喜との溝が埋まらず、その結果が、万一、将軍参内時の天皇による叱責にでもつながったら一大事です。直克らがそう考えたとすると、早急に行動を起こしたことが理解できる気がするのですが・・・。飛躍しているでしょうか? ○総裁職の位階昇進願いとの関連? 実は、伊達宗城の日記にこんな記述があります。この日の午後、宗城が春嶽・容堂と連れ立って、二条城に登城したところ、老中水野・有馬から、総裁職松平直克に従四位上に昇進の宣下があるように近衛家に請願してくれと頼まれたのだそうです。直克と有馬が慶喜と協議の上で復旧停止を決めたのはこの日の朝ですから、時系列的に後のことになります。朝議参豫たちに従四位上宣下の周旋を依頼するにあたって、その中心メンバーである慶喜の直克への「不満」を解消しておく必要があると感じたのではないでしょうか。 ところで、この頃、直克は従四位下・侍従に叙されていましたが、川越藩主の官位は従四位下が続いており、家格からみると官位は妥当なところでした。それが、なぜ、ここにきて、急に従四位上への昇進を願うことになったのでしょうか?管理人は、1月13日に島津久光が、朝議参豫に任ぜられ、それに伴い従四位下・少将に叙されたことに関係あるのではと想像しています。久光の叙任によって、直克と久光の位階は同じになり、官職は直克が久光の下になりました。つまり、朝廷からみると、直克は久光の下に位置することになるのです。,また、久光はそれまでは無位無官で、朝議参豫の格として従四位下・少将が与えられています。他の朝議参豫のうち、容堂・宗城も侍従ですが、朝廷は追って少将に昇任させるつもりでいましので、朝議参豫は少将以上と考えていることがわかると思います。翻って現総裁職の官位は従四位下・侍従です。こうみると、朝廷は総裁職より朝議参豫を格上にみているとも解釈できますよね。幕府としては、対久光という点からも、対朝議参豫という点からも、大変遺憾だったのではないでしょうか。 直克・久光を含む在京諸侯が将軍家茂に随従して総参内する日は、3日後に迫っていました。そのときまでになんとか直克の格上げを・・と急いでいたのでは・・・と勘繰ってしまいます。勘繰りすぎでしょうか?。 表:朝議参豫の官位
参考:『続再夢紀事』ニp356-358 (2008.12.28)、『伊達宗城在京日記』p312(2008.12.31) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」 ■将軍再上洛 【京】文久4年1月18日(1864年2月25日)午後、春嶽、山内容堂(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、蜂須賀斉裕(阿波藩主)が二条城に登城し、将軍家茂に閲して公武一和について上言しました。 春嶽は、<何事よりも、君臣の分を明らかにすることが今日の急務でありましょう。もし、このことが明確でなければ、たとえ一時は御一和にいたっても天下の人心は決して従わないでしょう>と述べたそうです。 参考:『続再夢紀事』ニp358 (2008.12.28) 【京】文久4年1月18日(1864年2月25日)夜、朝廷は、一橋慶喜が将軍後見職にあることを理由に、御所車寄せにおける昇降を許しました。 参考:『続再夢紀事』ニp360 (2008.12.28) また、この日、将軍は、浄花院にて病床にある容保に見舞いの使者を送り、菓子を下賜しました。 参考:『七年史』ニ (2002/2/27) |
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