3月の「幕末京都」 幕末日誌文久4/元治1 開国-開城 HP内検索  HPトップ


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文久4年1月25日(1864年3月3日)
【京】幕閣、参豫諸侯の長州征討案に同意する
【京】将軍家茂、守護職と総裁職に昨秋以来の労をねぎらい、物を与える
【京】近衛前関白、次の将軍参内時の「突然」の位階昇進を慶喜らに伝える
【京】近衛前関白、家茂隠居・慶喜の将軍宣下の朝議の風説を否定

★京都のお天気:晴朝微雪(久光の日記より)

二条城会議(2)
【京】文久4年1月25日(1864.3.3)、二条城にて、一橋慶喜(後見職)・松平容保(守護職)・松平直克(総裁職)・老中が集まり、長州処置について論じました。席上、慶喜が、先般来、参豫諸侯の会合で申し合わされた長州征討の意見を述べましたが、総裁職・老中に異論はなかったそうです

<ヒロ>
征長については、同月9日の参与諸侯の会合で、容保を征長副将((+紀州藩主徳川茂承を将軍名代にすること、征長軍には薩摩藩・因幡藩・備前藩等も加えることが議定され、容保が征長副将になるのに伴い、春嶽が守護職になることも合意されています(こちら)が、この日、御用談所でどこまで話し合われたのかは不明です。

宗城日記のナゾ(?)
この日の会合について、宗城は「御用談所へ一橋総閣中会被参長之御処置申談粗決ス」と記しています。この短い文にナゾが・・・・。(単に勉強不足だけなのかもですが)

この日、宗城自身と春嶽も登城していたのですが、上記の文から両名の参加は読み取れません。単純ミスなんでしょうか?それとも不参加だったのでしょうか???そうならなぜ?

「被参(参られ)」という表現から、宗城自身は含まれていない気もしますが・・・。では春嶽はというと、越前藩の記録では「営中に於て一橋殿より・・・長州征討の意見を述へられしか惣裁閣老とも別に異見なかりしとそ」とあり、その場にいたともいなかったともとれる表現です。ただ、春嶽が登城していながらこんな大事な会合に参加しないのは不自然だし、もし参加しないなら特別な理由があったはずで、そんなことがあれば、あの続再夢紀事に書きのがすはずはない気もします?

「御用談所」がどういう部屋なのかもナゾです(勉強不足。『江戸幕府役職集成』にも『徳川幕府事典』にものってませんでした)。これがわかれば、宗城の不参加?の理由の想像がつくかもしれないのですが・・・・。実はこの御用談所という部屋、このあとも宗城や久光の日記にでてきます。「御用部屋」(老中部屋)とは区別されて書かれているので、誤記ではなさそうです。一橋家で外向けのことを扱う役所を御用談所といったそうですが、日記には別に「一橋控室」がでてきて区別されて書かれているので、一橋関係とも違うようです。


実はこの日、久光も慶喜の呼び出しを受けていたのですが「昨日之一条」について「不平ノ義」があったため、登城を断っていました。(久光は前日の日記で、「土ハ暴言ハキチラシ先ニ退出以之外ノ義」と認めており、そのことを指しているのだと思います。要するにへそを曲げてたって感じでしょうか。その容堂も呼び出されていたかどうかは手持ちの資料からは不明です。


それにしても、このところ体調を崩している容保の会議への参加は珍しいですよね?実はこの日、将軍家茂は、京都守護職松平容保と政事総裁職松平直克に対し、昨秋以来の労をねぎらった上で、品物(金品?)を与えました。そのために将軍から召しだされており、登城していたのでした。会津側通史の『七年史』によれば、金一万両他が下賜されたそうです。『七年史』には御用部屋での議論が記されていないのですが、まぁ、そこが、また会津らしいというかなんというか・・・・。

【京】同日、二退城後、慶喜、春嶽、宗城は近衛邸を訪ねました。席上、忠熙(前関白)は来る27日の家茂参内時に「突然」位階を昇進させるつもりであると告げました。

また、諸侯の一人が家茂の隠居及び慶喜の将軍職宣下の風説について真偽を確認したところ、「素より虚構の説」でそのような朝議はないと否定し、家茂は和宮の婿であるので「殊に御寵愛在らせらるゝなり」と述べ、いったい誰が「斯る妄説を虚構せしにや」と言ったそうです。

<ヒロ>
去る1月20日に二条城に将軍に右大臣宣下の内旨が伝えるための勅使が派遣されましたが、このときは事前に情報がなく、一時、慶喜に準将軍宣下があるのだとの噂が流れて二条城は騒動になったといいます(こちら)。 今回も、慶喜への疑念から幕府有司の間でそういう噂が流れていたのではないかと思います。

このあたりの忠熙とのやりとりは、続再夢紀事では、<こうこうこういう風説を拙官は耳にしましたがそのような朝議があるのでしょうか?と尋ねた者があった>とぼかして記されています。また、忠熙の<誰がそんな妄説をでっちあげているのだ>という問いへの返答も記されていません(そもそも返答したのかどうかも)。春嶽あたりが聞いたんじゃないかと想像するのですが、このぼやかし方、かえってセンシティブ・マターであることを際立たせてる気がします^^;。

参考:『続再夢紀事』ニp373-374、『伊達宗城在京日記』p319、『鹿児島県史料 玉里島津家史料ニ』p745、『維新史料綱要』五(2010/2/27)、『七年史』ニ(2002/3/3)

関連:■守護職日誌元治1 ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「朝議参豫の動き「将軍の再上洛(元治1)」「長州・七卿処分問題(元治1)」 「会津藩の賞揚

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