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文久4年1月26日(1864年3月4日)

【京】春嶽、明27日の将軍位階昇進について仔細を確認するよう慶喜に要請。/
越前藩中根雪江、慶喜と直克・老中らとの隔意について一橋家黒川嘉兵衛と内談

【京】阿波藩、市中巡邏免除を請う/
【江】横浜鎖港交渉:)老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭、
米国公使に横浜鎖港の理由を弁明・下関償金猶予を求める

★京都のお天気:晴(久光の日記より)

【京】文久4年1月26日、松平春嶽は一橋慶喜に人を遣わし、明27日の将軍参内時の位階昇進について仔細を確認するよう申し入れました。

前夜、春嶽が慶喜・伊達宗城と近衛邸を訪れた際、前関白から27日の将軍参内時に位階昇進があることを告げられていました。春嶽は、もう少し確かなことを突き止めるする必要があること、もしそれなしで突然位階が昇進されれば「不都合」であることに気づき、中根雪江を遣わして慶喜に申し入れさせました。(昨夜のうちに気づかなかったのは、あまりに突然のことで気が回らなかったんでしょうか???)

○慶喜と直克・老中の隔意
中根は応対した黒川嘉兵衛に用件を伝えると、慶喜と総裁職松平直克らとの「御間柄の云々」について内談をしました。黒川は、もともと慶喜は直克を推薦したほどであり、京都においても直克を「精精御引き廻しなさるべき御内存」であるので、「何も云々はなき筈」だと答えました。

中根は重ねて他から聞いたことなどを言って聞かせたところ、黒川は<元来、老中らは「等閑」であり申すかいもない。最近も御用部屋で西陣の織物や陶器などを取広げて土産物の相談をしており、橋公が入られるのをみてにわかに片付けさせたそうだ。幕吏には国是決定が緊急事であることを知る者がおらず、朝廷のことも度外に付し、ただただ「関東の得手勝手のみに心を傾け」ている。総裁も老中も彼らに「化せられ」てあのような不始末に至っているのである。しかし、川越候のことは、お話があったので、そのうち橋公が「緩々御談話ある様」に申し上げ、その席に(川越藩の)山田・四王天をも呼び寄せて督責するようにいたそう>と答えたそうです。

黒川はさらに<先日二条城に勅使派遣の御沙汰があった時、橋公に準将軍宣下があると言いふらしたものがあり、芙蓉の間の輩(*1)は大いに騒ぎたてた。会候が、決してそのような事はあるはずがない、もし万一そのようなことがあれば、「此方一人にても拒むべし」と申されたほどだという。(幕府の役人は)このような「浅ましき人物のミ」であり、何とも申しようがない次第である。橋公を始め国事周旋の諸侯が四五日でも手をお引きになれば、どのような景況になることか。きっと婦女子のように「笑止千万の休態」を顕すのではないか>と嘆息したそうです。

(*1) 「芙蓉間の輩」とは、江戸城芙蓉間に伺候する役職づきの人びとのことで、芙蓉間席には大目付・諸奉行(町奉行、勘定奉行、作事奉行、普請奉行など)の幕府高官、御三家家老などが伺候します。

<慶喜VS直克/幕閣 おさらい>
これより前、慶喜は、直克が将軍上洛時に幕権回復を企図しているとみて、春嶽に善後策を相談しており(こちら)、その結果を受けてさらに中川宮・春嶽・伊達宗城が協議した結果、直克が上京した際には中川宮邸に呼び出し、幕府の旧習への回復は許されないと諭す手はずになっていました(こちら)

しかし、1月15日(16日説あり)に二条城に登城した慶喜は、直克・老中の変化を感じ取り(こちら)、同月16日、春嶽に対し、中川宮にもはや厳督に及ばない旨を伝えるよう依頼しました(こちら)。翌17日には中川宮と直克の会見が予定されていました。17日朝、春嶽は中川宮のもとへ藩士中根雪江を遣わし、過日総裁職松平直克に「厳督」を願い出ていた件につき、直克は着京後「大に了解の模様」であるので厳督には及ばないことを伝えるとともに、直克参候の際には「御愛憐の御旨趣」をもって「垂諭」あるよう願わせました(こちら)。一方、同じ日、直克は京都守護職松平容保を訪ね、幕府が服制を復旧したことで後見職一橋慶喜が不満をもっている件について、取り成しをしてくれるよう相談をしましたが、容保はそれには春嶽が適任だろうと答えました(こちら)。18日、直克は老中有馬道純とともに、慶喜を訪れ、幕府が服制を復旧した委細の事情を説明しましたが、議論の結果、将軍滞京中に二条城に登城する際は旅装を用いることを評決し、大目付が関係者に通達することになりました(こちら)(服制復旧の停止)。

ところが、その後も慶喜と直克始め幕府要路の間はしっくりいかず(幕閣側は慶喜の独断で物事を進めるのに不信感をいだいたようです)、去る23日には両者の疎隔を憂えた春嶽が藩士中根雪江・酒井雪之丞を直克の宿舎に派遣し、融和を周旋させようとしたほどでした(こちら)。この日も中根はこの件について黒川と話し合うよう、春嶽に言い含められていたのかもしれませんね?

<おまけ>
実は直克は先代の川越藩主松平直候の婿養子です(実父は久留米藩9代藩主有馬頼徳)。その直候も、実は養子で、実父は水戸藩7代藩主徳川斉昭でした(母は側室)。同じ斉昭の息子である慶喜は直候の異母兄です。つまり、慶喜にとっては直克は弟の後継、直克にとっては慶喜は先代の兄にもあたるわけです。ちなみに年齢も慶喜が三つ上です。(黒川は慶喜が直克を推薦したと言っていますが、慶喜にとって直克は準身内みたいな感覚もあったんじゃないでしょうか?それだけに手厳しいのかも・・・?)


京】同日、中川宮は、将軍の位階昇進は山陵修復の功によるものであると明らかにし、他にも褒賞を与えるので将軍が辞退せぬよう周旋を求めました。

午後、今度は黒川が越前藩邸を訪ねてきました。対面した春嶽に黒川は次のように述べたそうです。

<今日尹宮(=中川宮)から召されたので参上したところ、明日大樹公参内の折り、位階昇進の御内命があろう。これは神武帝山陵御修復が竣功に至ったことを賞して昇進させる叡慮であるので、御辞退あっては却ってよろしくない。また、戸田越前守(=宇都宮藩主戸田忠恕)を4品に叙せられ、幕府にも彼を万石以上の取り扱いに列する旨を仰せ出され、その他にもこの事に関して功労のある輩はそれぞれ御褒賞があるはずだが、大樹公がもし昇進を辞退されれば、戸田始めの褒賞に指し響くので、この点を心得て予め周旋するように仰せでした>。

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【江】横浜鎖港交渉
同日、老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭は、米国公使に横浜鎖港の理由を弁明し、下関償金の猶予を求めました。

参考:『続再夢紀事』ニp375-378、『維新史料綱要』五(2010/2/27)

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

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