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元治2年2月5日(1865.3.2)

【京】老中本庄宗秀、率兵入京
【京】中川宮、二条関白に、老中の応対は穏やかにするよう申し入れる
【江】幕府、大目付駒井朝温・目付御手洗幹一郎に長州藩主父子の江戸護送を命ず
五卿警衛五藩に、三条実美等の江戸護送を命ず
征長総督徳川慶勝に、速な出府を命ず。

京都のお天気:晴 (朝彦親王日記)

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
【京】元治2年2月5日(3.2)、老中本庄宗秀が兵を率いて着京しました。

(おさらい)
前元治1年年末、幕府は、京都寄りで幕府を苦しめていると猜疑する禁裏守衛総督一橋慶喜連れ戻しのために、老中松前崇広・若年寄立花種恭相次いで率兵上京させましたが、両名は役目を果たせないまま、この年の1月8日、9日に相次いで帰府していました(こちら)

幕府は、1月11日、今度は老中本庄宗秀・阿部正外に上京を命じました(こちら)。翌12日、松前崇広が守護職松平容保・所司代松平定敬に記した書状では、その目的は賄賂を用いた朝廷工作による将軍上洛阻止、幕府歩兵による御所九門警備の実現だとされていました(こちら)。幕府は、15日には長州処分の江戸での決定及び将軍進発延期を布令し(こちら)、本庄は1月19日、阿部は1月20日に江戸を出立しました。両老中の率兵上京の噂が届くと、京都では様々な憶測が飛び交いました。たとえば、肥後藩留守居役上田久兵衛は、2月4日に国許へ送った手紙で、両老中の上京目的は、世評では、「橋公を退ケ、会桑を取替、九門之藩兵を撤スル等之策」だと報じていました(こちら)

・朝廷の動き
【京】元治2年2月5日(3.2)、中川宮は、二条関白に、老中への応対は「寛」にありたいと、訪ねてきた議奏六条有容を通して申し入れました。

参考:『朝彦親王日記』一p139(2019/2/4)
関連:■テーマ別慶応1 本庄・阿部老中の率兵上京

>幕府の長州処分
■長州藩主父子・五卿の江戸送致問題

【江】元治2年2月5日(3.2)、幕府は、大目付駒井朝温・目付御手洗幹一郎に長州藩主父子の江戸護送を命じるとともに、五卿警衛の九州五藩に三条実美等の江戸護送を命じました。

さらに、征長総督徳川慶勝(前尾張藩主)に対しては、警衛の藩兵を大坂に出して駒井らの指揮に従わせること、また慶勝の速やかな出府を命じました。


<ヒロ>
幕府は強気です・・・。

(おさらい)
征長総督徳川慶勝は、元治1年12月27日、征長諸藩に撤兵を命じると(こちら)、翌元治2年1月1日、幕府に使者を派遣して長州服罪の様子と長州処分意見を上申させました(こちら)。一方、幕府は、入れ違いで、大目付大久保忠宣・目付山口直殻を芸州に派遣し、1月5日、慶勝に長州藩主父子及び三条実美らの江戸送致を命じましたが、慶勝は自分は将軍から黒印の全権委任を受けているとして、幕命を拒否しました(こちら)。慶勝が送った使者は1月11日に江戸に到着ししましたが(こちら)、幕府は、15日、長州処分は江戸で行うので将軍進発を中止すると布達しました(こちら)

幕府は、また、慶勝に、上京せずに急遽参せよと命じましたが(こちら)、朝廷は暫時滞留を命じました(こちら)。このため、慶勝は、朝命によりいったん上京参内し、後に参府することを上申し、1月24日に入京していました(こちら)。

参考:『維新史』四p383(2019/2/4)
関連:■「開国-開城」第一次幕長戦争と水戸浪士(天狗)西上■「テーマ別慶応1」第一次幕長戦:征長軍の撤兵と長州処分

【筑前】吉井幸輔・中岡慎太郎、三条実美に筑前藩の事情を報せる。実美、従士土方楠左衛門に命じ、中岡・吉井と上京させる。

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