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文久3年2月24日(1863.4.11)
【京】生麦償金:慶喜・春嶽ら、返答期限延期申入れを議定
&幕府、薩摩藩に英国軍艦に対する心得を達す
【京】浪士組:)清河八郎、学習院に建言書を提出

■生麦事件償金問題
【京】】文久3年2月24日、生麦事件に関する英国の要求の報知を受け、在京幕府要職は将軍家茂の上洛を待って衆議を尽し、将軍帰府の上で英国に返答する方針を決定し、英国には日限延期を申し入れるようにとの早飛脚を江戸に送りました。

この日、後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽・前尾張藩主徳川慶勝・前土佐藩主山内容堂・前宇和島藩主伊達宗城・大目付・目付らが集りました。慶喜は、生麦事件は攘夷決定以前の出来事なので償金を支払うべきだとの意見で、慶勝もこれに同意しました。宗城は、償金支払いは朝命に背き、諸藩の反発も買うとして反対しました。結論は出ず、結局、将軍帰府の上で返答することに決め、江戸に使者を送ったのだそうです。(『続再夢紀事』の日付は23日ですが、『伊達宗城在京日記』の24日を採りました)

同日、幕府は薩摩藩に英国軍艦に対して備えるように達しました

<此の度横浜表へ英国軍艦渡来生麦事件に付き三か条の難題申し出候。第一は償金、第二は三郎の首級差し出すべし、第三は薩州へ軍艦を指し向くべしとの義にて何れも聞き届け難き筋に付き、其の趣を以て応接及び候に付いては、如何様の次第に及び薩州表へ軍艦差し向け候程も計り難く候間、此の段、心得の為に相達し置き候事>(『続再夢紀事一』。管理人が読み易いように書き下しているので、原文として引用しないでね)

<ヒロ>
前日には、上京途上の老中も江戸からの使者に対し、返答期限延長の交渉を指示していました(こちら)。生麦事件償金支払いをめぐって攘夷戦争勃発の危機は高まるばかりですが、一方で、攘夷の機会を心待ちにしている人たちもいました・・・↓。

関連:■ 開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別「生麦事件償金問題
参考:『続再夢紀事一』・『徳川慶喜公伝2』(2004.4.11)
■浪士組上京
【京】文久3年2月24日、浪士組は清河八郎の起草した尊王攘夷の建白書を朝廷に提出しました。(俣野時中談『史談会速記録』)。

この建白書の草案を清河が起草したのは、同月22日、大津においてのことで、在京諸侯へ攘夷の勅諚が示されたこと、言路洞開の達しがあったことを知り、書き上げたそうです。翌23日に入京すると、清河は浪士組の主だったもの新徳寺に集めて建白書提出の同意を得ていました(こちら)。この日は、河野音次郎・和田理三郎・草野剛三・西恭助・森土金四郎・宇都宮左衛門の6名を選んで、学習院に提出に行かせました。

清河の草稿による建言書の大意は以下の通り
<今般私どもが上京いたしましたのは、将軍が御上洛の上、皇命を尊戴し、夷てきを攘斥するとの大義を御雄断されるにあたって、草莽の中でこれまで国事に周旋してきた者は申すに及ばず、尽忠報国の者があればこれまでの忌諱に拘らず広く天下に募り、人材を任用し、尊攘の道を主張されるという御意につき、私どもが登用されて、周旋せよとのことであります。夷変(ペリー来航)以来、累年国事に身命をなげってきた私たちの意とするところは、征夷大将軍の御職掌御主張が成り立ち、尊攘の道が達すようにと赤心ですので、右のように言路洞開、人材任用をされたので、赤心報国の志が徹底することだろうと存じ、ただちにお召しに応じて参りました。この上は、将軍家も断然攘夷の大命を尊戴し、朝廷を補佐することはもちろんですが、万一、因循姑息にして公武離隔の様子になれと、私どもは幾重にも挽回するよう周旋いたし、なお、それでも(その周旋を幕府が)採用しなければ、是非に及ばず、銘々靖献の心得にございます。その節は微小な身の私どもは、誠に恐れ入りますが、固より尽忠報国のため、身命をなげうって勤王いたす志意ですので、なにとぞ朝廷においても御憫察なさり、何方にでも、尊攘の赤心を遂げられるよう差し向けてくだされば、ありがたき幸せに存じます。右のような事情ですので、幕府の御世話で上京いたしましたが、禄位は受けておりません。ただただ、尊攘の大義挙を期しておりますので、万一皇命を妨げ、私意を企てる輩がおります場合は、たとえ有司(幕府の役人)であったとしても、いささかの容赦なく譴責いたしたいと(私ども浪士)一統の決心にございます。このだん、威厳を顧みず言上いたしますのでお聞き置きくださり、微心が徹底いたしますよう天地に誓って懇願いたします>(意訳ヒロ。引用は必ず原文にあたってください)

この建言書には学習院まで赴いた6名を含む235名が署名しているようです。清河はいってみれば黒幕であり、署名していないようです。

<ヒロ>
草野剛三(中村維隆)はのちに史談会で「あれが受けられなければ見事に学習院で腹を切るつもりであった」と非常の覚悟で臨んだことを語っています。一方、朝廷の方でも建白書を「お受けになるのもずいぶん難儀のよう」だったとか。(既に、20日には、学習院での草莽の建言は許されていましたので(こちら)、朝廷の方での受け取りが「難儀」だったという発言は不思議な気もしますが・・・。幕府の募集した浪士組が幕府を通さずに建白書を提出することに対しての「難儀」だったのでしょうか・・・???)。

表立って反幕・討幕を示唆する内容ではありません。あくまでも、将軍が征夷大将軍としての職掌を果たし、尊王攘夷を実践することが基本とされています。しかし、建言の後半部分では、万一将軍が尊王攘夷をためらえば正そうと周旋し、幕府がその周旋を受け入れねば「身命をなげうって勤王いたす志意」なので朝廷がどこへでも差し向けてほしい・・・とされています。第一義的には攘夷のためにどこへでも派兵してくれというのでしょうが、もし、攘夷をめぐって幕府が朝廷と対立する状態が続くならば、自分たちは朝廷につく、どこへでも・・・たとえ幕府へでも、差し向けてくれても構わないという清河の本音が見えるような気がします。また、幕府の募集に応じて上京はしたが禄は受けておらず、「皇命を妨げ、私意を企て候輩」は、たとえ幕府の役人であっても譴責する決心である・・・この部分にも、自分たちを朝命を奉じて幕府に対峙することも辞さない、いわば朝廷の親兵と位置づけていることがうかがえると思います。小山松勝一郎著『清河八郎』では「これこそ幕府の国内体制をくずす一本のくさびを打ち込んだことになる」と評価しています。清河は、「虎尾の会」、京都挙兵(寺田屋事件)で果たせなかったことを、ここに実現しようとしたというのです。

◆浪士組/新選組よくある誤解?
よく、近藤勇らは、清河のこの建白を幕府に反するものとして疑念をもったとか、憤ったとか思われている気がします。ところが、近藤自身の書簡をみると、どうもそうではないようです。文久3年2月26日付小島鹿之助宛書簡では、浪士一同の趣意を学習院に提出したところ、朝廷からも尽忠報国を奇特に思う趣旨が伝えられた(「浪士一同之趣意之趣去ル廿六日 皇帝学構奉差上 朝廷ニも尽忠報国奇特之趣被 仰下候」)と報じており、攘夷についても<最近、形勢が差迫り、攘夷決定となる趣で、大将軍も御帰府の上、20日の猶予をもってすぐに醜夷を掃攘するとあり、京地は大小名諸藩から自分達にいたるまでその勢いは盛んである(「方今形勢差迫り攘夷之事決定相成候趣 大将軍御帰府之上廿日之御猶予ニ而直様醜夷掃攘相成候様京地大小名諸藩小子共迄其勢広大ニ御座候」)>と熱い気持ちが書かれています。ここからは、清河八郎の草案による建白書に対する不信感は感じられず、むしろ自分の考えが反映されているとみているように受け取れます。

関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

参考:『史談会速記録』、近藤書簡の書き下し文は「鶴牧孝夫研究室」http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/index.htmから引用。
(2000.4.11、2003.4.23、2004.4.11)

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