4月トップへ 幕末日誌文久3 テーマ別文久3年 HP内検索  HPトップへ

前へ  次へ

文久3年2月25日(1863.4.12)
【京】生麦事件償金:薩摩藩士吉井幸輔・藤井良節、京都を出立。
【京】木像梟首事件:守護職松平容保、犯人捕縛を決意

■生麦事件償金問題
【京】文久3年2月25日、在京幕府要職は英国との交渉について朝廷に奏上することを議定しました。(『続再夢紀事』の日付は24日ですが、『伊達宗城在京日記』の25日を採りました)

同日、薩摩藩士吉井幸輔・藤井良節が、急を知らせるため京都を発ちました。

越前藩邸を訪ねた薩摩藩士高崎猪太郎の話によると、前日の英国人の要求に関する達しを受けて、朝、吉井が鹿児島に出発し、藤井は下関に出発しました。藤井が下関に向ったのは、島津久光が上京途上であるため、下関で待ち受けて報告をするためでした。在京薩摩藩邸では、(1)勅命によって上京中の久光はそのまま上京する、(2)英国艦が鹿児島に来航すれば事情を丁寧に説明するが、万一相手側が説明を受け入れない場合は、やむを得ず「勇断の処置」に及ぶだろうと話がまとまっていたそうです。

関連:テーマ別「生麦事件償金問題
参考:『続再夢紀事一』『伊達宗城在京日記』(2004.4.10)

■足利木像梟首事件
【京】文久3年2月25日、足利三代将軍木像梟首事件に激怒した容保は、犯人捕縛を決意しました

それまでの「言路洞開」という穏健路線の浪士対策を捨て、強硬策に転じることにしたのです

実は、犯人の中には会津藩公用局員で浪士探索にあたっていた大庭恭平がいました。この日、黒谷の会津本陣を訪ねた大庭は、容保に、自らの関与と関係者15名の姓名を密告しました。容保はしばらく沈思したあと、<その方の罪は今糾すときではない。(何をするかは)任せよう>と密かに金を与えて退出させたそうです。

事件に激怒していた容保は、「浪士の暴逆其極に達しぬれば、今は断じて恕すべきにあらず」と、その夜のうちに犯人を捕縛しようとしました。しかし、犯人捕縛をきっかけとする浪士の一斉蜂起を恐れた与力平塚瓢斎から注進を受けた町奉行永井尚志が延期と翌朝の打ち合わせを申し込んだため、その言葉に従いました。

激派公卿の一人三条実美も、容保に使者を遣わして騒動を起こすことはよくないと説得しましたが、容保は「我、固より至誠の義によりて処置せんとす、党興の夥多なる、たとひ幾千ありとも、顧みる所にあらず」と答えたといいます。

<ヒロ>
それにしても、浪士が一斉蜂起したら大変だったと思うんですけれど、そんなことかまわんって・・・^^;。結局、一斉蜂起は起りませんでしたけれど、蜂起がないと見極めて捕縛を決意したのではなく、「至誠の義」が行動原理だとは・・・。策略よりも「至誠」が重要だと考えていたという容保らしいですね。(参照:「余話」策略より至誠を尊しとした松平容保

とはいうものの、管理人は、容保が浪士を捕縛した背景には、入京したばかりで、学習院に対して尊王攘夷の建白書を出すなど、いってみれば不穏な動きをみせる浪士組に、毅然とした態度をみせる必要を感じたこともあったのでは・・・と想像したりもしています。

関連:■テーマ別「足利将軍木像梟首事件」「浪士対策」■開国開城「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■「「志士詩歌」足利木像梟首事件

<参考>『七年史』(2001.4.12)

前へ  次へ

 4月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ