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■政令帰一 【京】文久3年2月20日、将軍後見職一橋慶喜らは、政令帰一を論じるため、鷹司関白を訪問しましたが、関白は翌21日午後の近衛前関白邸での評議を希望しました。 前日の中川宮(青蓮院宮)との協議(こちら)を受け、後見職慶喜・総裁職松平春嶽・守護職松平容保・前土佐藩主山内容堂は、朝5ツ半、鷹司関白邸を訪問しました。しかし、参内の時間が迫っており、帰りの時間も不明なことから、鷹司は翌日午後の近衛前関白邸での協議を提案しました。 春嶽はこの協議に非常の覚悟で臨んだようで、出邸前、「今日は無事には帰るまじきぞ」と重臣に向って告げたそうです。一方、容堂は最初、関白邸への参殿を断ったそうですが、これを知った薩摩藩士高崎猪太郎の説得により参殿したそうです。 関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」 参考:『続再夢紀事』一 (2003.4.19) ■攘夷親征 【京】文久3年2月20日、長州藩世子毛利定広は、鷹司関白に、攘夷親征を期す賀茂上下両社・泉涌寺行幸を建議しました。 ペリー来航以来、天皇は伊勢・加茂・石清水神社等に度々祈願をしていましたが、行幸の上で祈願を行ったことはありませんでした。建白書では <・・このたび攘夷期限をご決定された上は速やかに奉幣使を派遣されますように。特に加茂神社は皇居の近くにあるので、非常の破格をもって社参され、泉湧寺(皇室の菩提寺)にも詣でられ、歴代の叡霊にご報告されるべきです。(行幸)は親征巡狩の基となるだけではなく、草莽の者が鳳輦を拝見すれば、どのように感激奮興することでしょう。攘夷の大業もまたここに立つことでしょう>(意訳byヒロ。素人訳につき引用しないでください) <ヒロ> この建白は同月16日の世子定広旅宿での久坂玄瑞・平井収二郎・宮部鼎蔵らの議論(こちら)がもとになっているといわれています。これまで攘夷親征の議論はありましたが、それらは下士や浪士によって論じられてきました。一藩が朝廷に建議をしたのはこれが初めてでした。 関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「攘夷親征」 参考:『修訂防長回天史』・『徳川慶喜公伝』 (2003.4.19) ■言路洞開 【京】文久3年2月20日、朝廷は学習院における草莽の建言を許しました。 直接には、言路を開くように(言路洞開)という国事参政・寄人の14日の建言を受けたものですが(こちら)、その建言は11日に久坂玄瑞らが鷹司輔熙新関白に迫った三策に基づくものでした(こちら)。 関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」 |
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